アイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタ(、1900年3月9日 - 1948年1月29日)は、イタリア王国の王族で、第4代アオスタ公爵(在位:1942年3月3日 - 1948年1月29日)、クロアチア独立国の国王(在位:1941年5月18日 - 1943年10月12日)。クロアチア国王としてはトミスラヴ2世()と呼ばれる。全名はアイモーネ・ロベルト・マルゲリータ・マリーア・ジュゼッペ・トリノ・ディ・サヴォイア()。1900年、第2代アオスタ公爵エマヌエーレ・フィリベルト(スペイン国王アマデオ1世と妃マリア・ビトリアの子)とエレナ妃(オルレアン公爵フィリップとスペイン王女マリア・イザベルの娘)の第2子としてトリノで生まれた。曾祖父はイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世であり。サヴォイア家の支流のサヴォイア=アオスタ家の出身であった。1904年9月22日、生涯の称号となるスポレート公爵に叙された。第二次世界大戦中の1941年、ドイツ・イタリアの枢軸軍がユーゴスラビアを占領すると、クロアチアの大部分とボスニア・ヘルツェゴビナを併せ、クロアチア独立国を創設した。そしてクロアチア政府の首班アンテ・パヴェリッチは、イタリアから国王を迎えようとムッソリーニに打診し、アイモーネが選ばれた。1941年5月18日、アイモーネはクロアチア建国の英雄トミスラヴ()の名を取り、クロアチア国王トミスラヴ2世たることを宣言した。しかし、クロアチア王位は形式的意義しか持たず、如何なる実際上の権力も有さなかった。また、クロアチア人によるテロを恐れ、自らの領土には足を踏み入れず、フィレンツェに留まった。そして、連合国に対するイタリアの降伏を受け、1943年10月12日にクロアチア王位を放棄した。一方、兄の第3代アオスタ公爵アメデーオがタンガニーカのイギリス軍捕虜収容所で死亡したため、1942年3月3日、第4代アオスタ公爵の地位を継承した。戦後、国民投票に基づきイタリアの王制が廃止され、サヴォイア家が国外追放されると、アイモーネはアルゼンチンに移住した。そして、1948年ブエノスアイレスで死去した。1939年7月1日、ギリシャ国王コンスタンティノス1世とソフィア王妃の娘であるイレーネ王女とフィレンツェで結婚し、1男を儲けた。トミスラヴ2世の国王時代の正式な称号は以下の通りである。
出典:wikipedia
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