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大山泰彦

大山 泰彦(おおやま やすひこ、1942年7月2日 - )は、日本の空手家で国際大山空手道連盟最高師範。段位は九段。国際空手道連盟 極真会館出身で、山崎照朝と並び、天才と称された。東京都文京区小石川生まれ。明治大学法学部卒業。中学でサッカーをやっていた泰彦は、ケンカも頻繁にやる問題児でもあった。それをみかねた兄大山茂が既に空手道を修行していた事から、泰彦の鼻っ柱をへし折る目的で大山道場へ連れて行った。「いつもやっているケンカのようにやればいいんだよ」と言われた泰彦は、いきなり組手をやらされる事になる。「中足蹴りがわからないのでサッカーの蹴りをしたが、結果的にはそれが背足蹴りだった」と泰彦は述懐しているが、同い年の春山一郎や茂に組手で、散々に痛めつけられた。その悔しさから泰彦は大山道場に入門する決心をした。大山倍達以下、師範代である石橋雅史・安田英治・黒崎健時らの指導を受け、春山一郎をライバルと意識して稽古に励む。二年目には茂と、三年目には春山と、互角に組手するようになり、特に茂との組手はまるで親の敵討ちのように激しくやりあうようになり、見かねた大山が兄弟の組手を禁止にした。1963年春に大山道場は、野口修からムエタイとの対抗戦を持ちかけられる。大山倍達は黒崎を監督、メンバーに当時「極真四天王」と云われた、岡田博文・泰彦・中村忠・藤平昭雄を選出した。黒崎ら5名は、8月から鬼怒川で1か月間合宿を行い、10月のタイ遠征に備えた。しかし12月に延期され、更に翌1964年1月に再延期された。弁護士を目指していた泰彦は、司法試験との兼ね合いからこの遠征を辞退する。同年、大山道場は国際空手道連盟 極真会館へ刷新するが、泰彦は「司法試験に合格するには、空手と二股をかけていたのでは到底無理」と考え、一時空手の修行を断念し、極真会館を離れた。その後、受験勉強の傍ら、たまに会館に訪れたり、1969年から開催されたオープントーナメント全日本空手道選手権大会の手伝いをする程度の関りであった。そんな泰彦が1971年4月、本部道場師範代に任命され、正式に極真会館へ復帰した。その理由を「(司法試験に対して)自分の限界もみえた。そんな時に大山(倍達)館長からお誘いを受けた」と語っている。同年6月15日に四段允許。秋に開催された第3回全日本選手権では、開催直前まで裏方スタッフとして働いていたところ大山より出場するように命じられ、当時としては異例の29歳で急遽初出場し、準優勝した。1972年百人組手に挑戦。同年、インストラクターとして渡米し、アラバマ州バーミングハムで指導を始める。その後、アメリカ各地、ヨーロッパでも極真空手の普及に勤しむ。現地で育成した主な門下生に、チャック・チズムや竹森毅らがいる。第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会前には「日本選手が優勝しなくてはいけない」という大山の意向で送り込まれた郷田勇三・添野義二・佐藤勝昭・岸信行・二宮城光・佐藤俊和らを指導した。毎年秋に開催されている全日本選手権と全世界選手権ではテレビ中継の解説を担い、そこで様々な論理を展開し、好評を博していた。これら大会では自らトンファーを持ち、真剣を持った相手との演武も行った。ドキュメンタリー映画「地上最強のカラテ2」(三協映画)では、このトンファーの他にヌンチャクでの演武も披露している。また、劇画空手バカ一代でも重要人物の一人として登場した。1984年極真会館から離脱。兄の茂や三浦美幸と共に国際大山空手道連盟を設立し、最高師範に就任。極真カラテの様々な理論の系譜をさかのぼる上で、欠かせない人物と評されている。二段蹴りをはじめ、いろいろな技に積極的に挑んだ。試合中に相手の死角をついて、できるだけ低い体勢から蹴りを低く繰り出し、畳スレスレになるぐらいに足刀を出し膝を蹴りにいく、というような戦法も試みたようだ。この研究熱心さと泰彦の人間性に心酔者も数多い。技の習得が早く、フットワークを生かした素早い動きで相手を翻弄し、技の切れで倒すスタイルだった。泰彦の上段への中足蹴りは、黒崎健時から「禁じ手」と言い渡されていたほど強力だった。1972年9月、泰彦は百人組手に挑んだ。対戦者は添野義二・鈴木浩平・三浦美幸・佐藤勝昭・岸信行・磯部清次・大石代悟・・東谷巧らの他に一般道場生が相手となった。介添役には山崎照朝。審判は山下勇が勤め、立会い人に大山倍達、梶原一騎らがいた。大山倍達は対戦者に「手抜きは絶対に許さない。徹底的にやりなさい。もし泰彦四段を一本で倒したら、昇段を認める。心してかかりなさい」と通達した。後の百人組手ではなどで技ありを認められたが、大山の意向により、完璧な一本で倒さない限り、きっちり2分で行われた。極真機関誌の写真を多く手がけ、この撮影にも参加していた土戸カメラマンは「みんなガチンコじゃないか。こんなので持つわけがない。大山館長は何を考えているのか?と思い大山館長を見たら、苦渋の表情をしていた」と述懐している。結果は61人目で中止となり、完遂できなかった。しかし、その場にいた真樹日佐夫は「こと技の巧みさという点では、のちの達成者『三浦美幸やハワード・コリンズ』に比べて数等すぐれていた」と証言し、三浦は「ぼくの百人組手は、“達成させてやろう”という雰囲気が周囲にあったけれど、泰彦師範の場合は“絶対に阻止する”という百人組手だった。あれは本当に凄かった」と語るほど、試合さながらの激しい組手を交わし、“史上最激の百人組手”として語り継がれている。大山倍達と同姓であるが血縁はなく、大山は泰彦の父親の書生をしていた時期があった。泰彦の実家には曺寧柱も出入りしている。泰彦は3人兄弟の三男で、元々は博という長男が大山の弟子であった。その後、博は力道山の弟子になりプロレスを経験し、ハワイ州に在住している。泰彦は大山倍達と直接、組手をした弟子の一人である。大山が弟子と組手する際には、自分は攻撃せず受ける組手が多かったが、中村忠によると「僕は高一でまだ始めて間もない頃、大山館長は受けの組手で手加減してくれていました。だけど、もっと上手な先輩とやる時は正拳突きも使っていましたよ。安田先輩や茂さん、泰彦さんなんかと、大山館長が組手をする時は激しくやってましたね」と証言している。松井章圭は第4回全世界空手道選手権大会前にアラバマへ出稽古に行き、泰彦の指導を受けた。

出典:wikipedia

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