キング・クリムゾン (King Crimson) は、イングランドのプログレッシブ・ロックバンド。ギタリスト ロバート・フリップが主宰を務めている事で知られ、活動は結成から40年以上に及ぶ。1968年に結成。アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』で1969年にデビュー。以降、リーダーのロバート・フリップはバンドのメンバーを次々と替えていき、音楽性も多様に変遷を辿った。日本では俗に「クリムゾン」などと呼ばれることもあるが、本国ファンにはCrimso(クリムソ)の略称が根強い。1968年、ジャイルズ兄弟(マイケル・ジャイルズ、ピーター・ジャイルズ)とロバート・フリップの3人によるバンド「ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ」から発展し、6月にマルチプレイヤーのイアン・マクドナルド、作詞・ライブ時の照明担当のピート・シンフィールド、女性ボーカルのジュディ・ダイブルが加わったが、翌月の7月にダイブルが抜け、12月にベースのピーター・ジャイルズが抜けている。フリップの古くからの友人であったボーカリスト兼ベーシストのグレッグ・レイクが参加して、第1期のメンバーが揃うこととなった。バンド名は加入前にマクドナルドとシンフィールドが共作した曲「クリムゾン・キングの宮殿」からで、シンフィールドがメンバーの反対を押し切って付けたとインタビューに答えている。1969年初頭からリハーサルと曲作りが行われ、公開リハーサルの後、ライブ活動とアルバム制作が行われていった。ファースト・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』は、当時からよく雑誌のレコード・レビューなどで、「1969年に、ビートルズの『アビイ・ロード』を1位から転落させたアルバム」といった内容で紹介されることが多かった。英国音楽誌NMEでは最高位は5位。このファースト・アルバム制作当初、プロデュースしたトニー・クラークは自ら手掛けるムーディ・ブルース同様のサウンド作りを要求したためにバンドと決裂し、スレッショルド・レーベルからのリリースは破談となり、バンドがセルフプロデュースして、アイランド・レーベルからのリリースとなった。キング・クリムゾンでは、一貫してフリップがリーダーシップを握っている。しかし、この当時は作曲やアレンジを含めた音楽面では、マクドナルドが優勢であったとされる。特に、キーボード(メロトロン)、サックス、フルートを導入し、新たな音楽を創造した功績は大きいとされている。この後にマクドナルドとジャイルズは脱退し、共同名義のアルバムをリリースした。そのなかで、1970年リリースのキング・クリムゾンのセカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』の、一部収録曲の「ネタばらし」をした。マグドナルドは後の1976年にフォリナーのメンバーとなり、ギターやキーボードなどを担当している。セカンド・アルバムでは、後任ドラマーであるアンディ・マカロックのスケジュールが合わなかった為マイケル・ジャイルズが客演、譜面が読める事でリハーサルに時間を取らない事を理由にピーター・ジャイルズが参加したが、セカンドアルバム後のツアーがキャンセルされた為ライブ演奏は残してない。レイクは4月になるとレコーディングに来なくなり、その後結成したエマーソン・レイク・アンド・パーマーで成功することになる。セカンド・アルバムのリリース以降、サード・アルバム『リザード』、その後の『アイランズ』や『太陽と戦慄』に至るまで、キング・クリムゾンはメンバー・チェンジを繰り返した。1971年オーディションでベースが決まらないため、ボーカリストのボズ・バレルに対し、フリップはベースギターの奏法を教授し担当させ、アルバム『アイランズ』収録前にドイツ等でツアーを行っている。シンフィールドは71年8月にニュー・ミュージカル・エキスプレス誌に脱退を予告し年末に解雇された。険悪化した関係のシンフィールドをクビにすることで印税を4等分すると約束したフリップだったが、年明け早々のリハーサルでフリップは孤立し、バンドは解散したが、マネージメントは契約を楯に残り3ヶ月のツアー続行を強行した。音質の悪いライヴ・アルバム『アースバウンド』を廉価版にてリリース。この時のメンバーは72年4月に解散した。ツアー終了後、フリップのみ英国へ帰国し、残りの3人は共演したアレクシス・コーナーとバンドを組んでツアーをした。その後、ボズはポール・ロジャースのバンドバッド・カンパニーのベーシストとして参加することとなる。シンフィールドもレイクの呼びかけに応じ、エマーソン・レイク&パーマーに作詞で協力したりソロ・アルバム『スティル』を制作した。フリップはこの時期のバンド解消を「彼らとではアイディア(太陽と戦慄)を具体化できなかったから」と説明している。1972年には、ドラマーのビル・ブルーフォードがイエスから参加した。また、ファミリーのベーシスト兼ボーカリストでフリップの大学時代の友人ジョン・ウェットン、クリムゾンへ影響を与えた即興集団デレク・ベイリー主宰カンパニーのパーカッショニスト、ジェイミー・ミューア、そしてデヴィッド・クロスが集結。ここで再びバンドとしてのピークを迎え、『太陽と戦慄』『暗黒の世界』『レッド』の3枚のアルバムを一部メンバー脱退を経ながらもリリースし、ライヴ・ツアーも精力的にこなす。この当時のアメリカでのライヴの様子を収録したライヴ・アルバム『USA』が解散後の1975年にリリースされた。元音源にはバイオリン兼キーボード(主にメロトロン)担当のデヴィッド・クロスが参加していたのだが、いくつかが編集段階でエディ・ジョブソンの演奏に差し替えられている。1974年制作されたアルバム『レッド』は、ウェットンの呼びかけで数名のOBが参加したが、リリース後フリップは突然解散宣言を出す。その直前には、フリップとウェットン、ブルーフォードの3人となったバンドに『レッド』にも参加したかつてのメンバー、マクドナルドを再度迎えて、バンド継続計画を発表していたが、フリップには継続の意思は無かったとされる。この頃、アルバム『太陽と戦慄』に収録されている曲「太陽と戦慄 パート2」が無断引用された曲(盗作と言われている)が映画「エマニエル夫人」で使用され、フリップの訴えによる裁判が行なわれている。(後に和解)1981年、かつてのメンバーであるビル・ブルーフォードを加えて、「ディシプリン」というバンド名でフリップはライブ活動を始めた。アメリカ人ベーシスト、トニー・レヴィンが加入。また、2人目のギタリスト、兼ボーカリストにアメリカ人のエイドリアン・ブリューが参加した。この4人からなるバンド「ディシプリン」が改名してキング・クリムゾンとなった。このような形での再結成には批判が高まり、「キング・クリムゾンがトーキング・ヘッズ化した」という批判も一部から出た。ウェットンも「英国人以外が参加しているこのラインナップをクリムゾンとして認めていない」旨の発言をしている。当初のバンド名をタイトルとしたアルバム『ディシプリン』リリース後、1981年12月に初来日し、渋谷公会堂、浅草国際劇場を始めとする全国ツアーを行なった。その後、『ビート』『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』の2枚のアルバムとライヴ・ビデオ2作品をリリースし、1980年代半ばに解散した。この時期のキング・クリムゾンは、2本のギターとスティックによる複雑なアルペジオの絡みがバンドの音楽を特徴的なものにしている。後にフリップは、「(レコード)レーベル会社との契約上、1枚のアルバムを出したいがために、結局3枚のアルバムを出さざるをえなくなってしまった」と、インタビューで述べている。1970年代までの楽曲のうち、このラインナップで演奏されたのは、「太陽と戦慄 パート2」(この頃に「パート3」が作られ、以降、「太陽と戦慄」の続編が作られることとなる)と「レッド」のみであった。1994年に再々々結成をした。1980年代のキング・クリムゾンのメンバーにさらにメンバーを追加し、6人編成となり、「2つのトリオ編成」(通称ダブルトリオ)となった。このラインナップでも「ヴルーム」「スラック」の2作を発表し、ライヴ・ツアーを行っている。ツアーを終え休息後に集合したバンドはリハ段階で内紛になり、6人編成を棚上げにしてプロジェクト単位の活動に一時シフトした。この頃、グレッグら4人が打ち合わせたオリジナル・メンバーでのキング・クリムゾンの再結成と、もう一つのマクドナルド、ウェットン、ジャイルズにフリップの4人での活動は、共に計画段階で頓挫している。1995年にTOKYO FM出版は書籍『キング・クリムゾン』〈地球音楽ライブラリー〉を発行したが、キング・クリムゾンのメンバーに無断で発行したため、ロバート・フリップはパブリシティ権を侵害されたとして出版元のTOKYO FM出版を訴えた。これを「キング・クリムゾン事件」という。第1審ではフリップの勝訴となったが、控訴審ではTOKYO FM出版が逆転勝訴し、以後記載内容の多くのミスが修正されないまま2007年にも再版されている。2000年以降、ブルーフォードは自らのバンド、アースワークスの活動に専念、レヴィンはピーター・ガブリエルとのセッションがあったため脱退のアナウンスはなかったものの実質的にはクリムゾンのメンバーとしての活動はなかった(待機状態)。フリップはキング・クリムゾンの活動以外にも、断続的にソロ活動や様々なプロジェクト、他のミュージシャンのプロデュースなどを手がけていた。2003年の終わり頃、1990年代の「ダブル・トリオ」編成のメンバーだったトレイ・ガンが正式な脱退を表明。レヴィンはスケジュールの都合で2000年以降不参加であったが、2004年復帰しガンと入れ替わってリハーサルに参加した。なお、ブルーフォードは2009年に現役引退を表明し、結局はキング・クリムゾンに復帰することはなかった。2008年4月、新ラインナップにて今後の活動計画を話し合う会合とリハーサルが再開。更に新メンバーとしてポーキュパイン・トゥリーのドラマー、ギャヴィン・ハリソンの加入が明らかになった。同年8月にアメリカ・ツアーが行われ、その後、さらなるツアーが予定されていたが、エイドリアン・ブリューが自身のソロツアーとダブルブッキングしてしまったことでフリップが機嫌を損ね、以降のツアーは白紙になった。2011年にフリップが音楽業界からの引退を表明し、活動終了を宣言。2013年、前言を撤回し、DGM Live上でフリップがかつて主催したギタークラフト参加者のビル・リーフリンの加入による、トリプルドラム編成での再始動が発表された。2014年、ライブ活動を再開。同年6月に発表されたメンバー構成は、フリップ、メル・コリンズ、トニー・レヴィン、パット・マステロット、ギャヴィン・ハリソン、ビル・リーフリン、によるトリプルドラム7人編成で、同年9月9日よりアメリカにて17回の公演のツアーを開始した。2015年、12月、約12年ぶりに日本公演を開催。2016年、9月の欧州ツアーからドラマーのリーフリンが降板。代役にジェレミー・ステイシーが参加し、翌年正式に加入する。オリジナルアルバムミニアルバムライブ公式ベストアルバム
出典:wikipedia
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