円城寺 満(えんじょうじ みつる、1910年 - 1983年7月13日)は1940年代~1960年代にかけて活動した元プロ野球審判員。大連商業時代、夏の甲子園にエースとして出場、準優勝を果たす活躍をした(ベンチコーチは湯浅禎夫)。その後法政大学に進学。終戦後、再開されたプロ野球の東西対抗戦に審判員として初登場。翌1946年に日本野球連盟に入局し審判員として活動、1950年の2リーグ制移行後はセントラル・リーグに転籍。1955年の東西二部制以降後は関東勤務の審判員となり1967年までつとめた。審判員としてオールスターゲームや日本シリーズにも出場。中でも1961年の日本シリーズ第4戦9回表における“ボール判定”は球史に残る大事件とされている。1961年10月29日に後楽園球場にて行なわれた読売ジャイアンツ(巨人)対南海ホークスの日本選手権シリーズ第4戦。3-2で南海リードの9回裏二死満塁、この回途中から登板のジョー・スタンカが、打者宮本敏雄を2ストライクと追い込んで投じた外角低めを、宮本が見送った。ゲームセットと思った捕手野村克也は腰を浮かせたが球審の円城寺はボールの判定。これにバッテリーと鶴岡監督が抗議するが判定は変わらず、試合再開後のスタンカの投球を宮本が右翼に逆転サヨナラ適時打を放った。このときスタンカはベースカバーに入ると見せかけて円城寺に体当たりを食らわせた。試合が終わるや否や南海の選手たちは円城寺に猛抗議をし、円城寺は関係者に守られながら球場を後にする。巨人はこのサヨナラ勝ちで3勝1敗になり、シリーズの王手をかけ、結局当該判定がシリーズの分岐点となった。第4戦の円城寺の判定に関して「円城寺 あれがボールか 秋の空」との句(詠み人知らず)が巷に広まった。南海の監督であった鶴岡一人は、後年執筆した「私の履歴書」で、上記の円城寺への暴行について「暴力はいけないこと」と、スタンカの一球は「ストライクとも、ボールとも、どちらにでもとれる微妙なものだった」と認める一方で、「その後、円城寺さんは責任を感じられたのか、体を悪くして審判を辞められた。(中略)あるいは間違ったかな、という気になられたのではなかろうか」と書いている。
出典:wikipedia
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