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藍川清成

藍川 清成(あいかわ きよなり、1872年5月21日(明治5年4月15日) - 1948年(昭和23年)9月7日)は、明治末期から大正、昭和初期にかけて活動した日本の弁護士、政治家、実業家。岐阜県出身。まず弁護士として開業し、政界や実業界に進出した。政治家としては愛知県議会議員、名古屋市会議員、衆議院議員(当選1回)を歴任。実業界では愛知電気鉄道(愛電)社長、名古屋鉄道(名鉄)社長などを務めた。藍川清成は1872年5月、岐阜県厚見郡小熊村(現・岐阜市)に生まれた。幼名は望一郎。父の清通は弁護士で、岐阜市大門町にある圓龍寺の次男であったが、分家して藍川町に居を構え藍川を姓とした。清成は清通と母・菊栄の一人息子であった。岐阜県第一中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)、第三高等中学校を経て1895年(明治28年)7月に帝国大学法科大学英法科(現・東京大学法学部)を卒業する。卒業後は名古屋市へ出て、25歳で弁護士として開業した。1904年(明治37年)1月、顧問弁護士として出入りしていた名古屋の電力会社名古屋電灯株式会社(後の東邦電力)の株主となって同社監査役に就任した。1906年(明治39年)には名古屋電灯と競合会社であった東海電気の合併を取りまとめ、翌年1月取締役に選任された。この名古屋電灯が藍川が実業界入りした最初の会社である。同じ時期に政界にも進出し、1904年に名古屋市会議員選挙に立候補して当選。当時33歳で議員中最年少であった。市会議員は1910年(明治43年)まで1期6年務めている。藍川が名古屋電灯の取締役に就任したころ、株式投資で財を成した福澤桃介が名古屋電灯の株式を買収し始め、1910年には筆頭株主となって同社に乗り込んできた。1910年1月に福澤が同社取締役に選任されるとともに藍川は取締役を退任したが、引き続き顧問弁護士として名古屋電灯に出入りし、福澤に接近して親密な関係を結んだ。1906年、藍川は同志6人とともに、鉄道が未だ通じていなかった知多半島西海岸と名古屋を結ぶ電気鉄道を企画し関係当局に出願した。計画はなかなか進捗しなかったが、実業家の兼松煕や元甲武鉄道取締役の岩田作兵衛、元関西鉄道社長の田中新七らも発起人に加わってからは計画が前進し、1910年(明治43年)11月、愛知電気鉄道株式会社(愛電)が発足するに至った。藍川は同社の監査役に就任した。実業界での活動の一方で、愛電最初の路線(現在の名鉄常滑線にあたる)が開通した1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に立候補するが、原真澄に敗れて落選した。監査役を務める愛電は、開通したものの巨額の建設費と不況による収入減が重なって業績が低下し、さらに大須にあった遊廓の移転に絡む疑獄事件が発覚して役員の大半が辞任するという事態に直面した。1913年(大正2年)12月、藍川は愛電の取締役に選出され、次いで常務取締役となった。翌1914年(大正3年)8月には当時名古屋電灯常務の福澤桃介(同年12月以降同社社長)を新社長に招き、藍川は福澤の下で経営建て直しを始める。業績は1916年(大正5年)ごろから回復に転じ、1917年(大正6年)6月に福澤は社長の辞任を申し出て後任に藍川を推薦し、藍川が愛電の3代目社長に就任した。この後は、今度は藍川の方が福澤の事業に顔を出しており、福澤が社長となって1918年(大正7年)木曽電気製鉄が発足すると監査役となり、同社が大同電力となった後の1923年(大正12年)まで務めている。1922年(大正11年)7月、愛電は名古屋から豊橋に至る鉄道敷設免許を得ていたものの着工するに至っていなかった東海道電気鉄道を合併した。同社は福澤桃介が社長となり将来的に東京と大阪を電気鉄道で結ぶという遠大な構想を持っていたが、資金源であった安田善次郎が急死したため事業に行き詰っていた。東海道電気鉄道が持っていた免許を引き継いだ愛電では豊橋まで路線を延長する計画を樹立し、1927年(昭和2年)6月、名古屋と豊橋を結ぶ路線(現在の名鉄名古屋本線の一部にあたる)を全通させた。実業界での活動に並行して政界でも引き続き活動しており、1915年(大正4年)に愛知県議会議員に当選。1923年(大正12年)まで2期8年務め、その間には県議会副議長にも就任した。愛電社長となった1917年には名古屋市会議員選挙に再出馬して当選し、県議会議員と市会議員を兼任した。しかしこの時期の名古屋市政は市内で路面電車を運営していた名古屋電気鉄道の市営化問題(最終的に市営化されて名古屋市電となる)や名古屋電灯との関係をめぐって政争が続いていた。藍川も政争に巻き込まれて1921年(大正10年)の市会議員選挙では落選する。しばらく政界から離れていたが、1930年(昭和5年)、帝国大学の同窓で当時首相の浜口雄幸を支援するために誘われて第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選、1932年(昭和7年)まで1期2年衆議院議員を務めた。選挙区は愛知県第2区、所属政党は立憲民政党である。藍川率いる愛電は大正末期まで好業績を挙げていたが、昭和に入ると不況の影響により停滞した。昭和恐慌や満州事変を背景に各地で交通事業の統制が進む中、愛知県の二大鉄道会社である愛電および名岐鉄道(名古屋電気鉄道の後身で愛知県西部から岐阜県にかけて路線網を広げた)についても合併論が起こるようになる。1934年(昭和9年)より両社の間では交渉が持たれ、翌1935年(昭和10年)2月合併仮契約書に調印、同年8月1日付で名岐鉄道と愛電の合併が実行され、名岐鉄道が存続会社となって名古屋鉄道(名鉄)に改称、愛電は解散した。新発足した名鉄は愛知岐阜両県にまたがる約360kmの鉄道路線を擁する私鉄となった。当初の予定では合併に際しては名岐鉄道社長の跡田直一が新会社の社長に就任するはずであったが、合併直前の7月に跡田が死去したため、副社長に内定していた藍川が繰り上がって名鉄初代社長に就任した。発足なった名鉄で藍川は、新ターミナルである新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)および旧名岐鉄道線と旧愛電線をつなぐ東西連絡線(現在は名古屋本線の一部)の建設、三河鉄道など愛知・岐阜両県下に残る中小私鉄の統合、傘下バス事業者の統制などに尽力した。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月、1935年以来社長の座にあった藍川は取締役会長となり、副社長であった名岐鉄道出身の神野金之助が新たに取締役社長に就任した。社長を引退した藍川は74歳の高齢であった。終戦後の1946年(昭和21年)5月には会長からも退き、相談役に推挙された。1948年(昭和23年)9月7日、新舞子の自邸で死去。名鉄から退いた藍川は名鉄系の関係会社からも退いていたが、豊橋電気軌道(現・豊橋鉄道)の社長は死去するまでその座にあった。上記の他にも関係した企業は多数存在する。取締役社長・会長に就任した企業に限っても、鉄道事業者12社、バス事業者19社、電力会社2社、不動産会社5社、海陸運輸事業者6社、造船・機械7社、その他5社の多数に及ぶ。猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)ア三五頁によれば

出典:wikipedia

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