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華厳寺

華厳寺(けごんじ)は、岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積にある天台宗の寺院。山号は谷汲山(たにぐみさん)。本尊は十一面観音、脇侍として不動明王と毘沙門天を安置する。西国三十三所第三十三番札所、満願結願の寺院で桜、紅葉の名所としても知られ多くの観光客で賑わう。西国三十三所の札所寺院では唯一、近畿地方以外にある。永禄3年(1560年)成立の『谷汲山根元由来記』によると、華厳寺は延暦17年(798年)、会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって創建されたという。『由来記』によれば、大口大領は都の仏師に依頼して自らの信仰する十一面観音の像を造立した。彼は観音像とともに会津に帰ろうとしていたが、途中、美濃国の赤坂(現・岐阜県大垣市)で観音像が動かなくなってしまった。赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、大口大領は同地に草庵を建立。延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人(ぶねんしょうにん)の協力を得て華厳寺を建立した。延暦20年(801年)、桓武天皇の勅願寺となり、延喜17年(917年)には醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜。天慶7年(944年)には朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め、仏具・福田として一万五千石を与えたという。「谷汲山」という山号については、寺付近の谷から油が湧き出し、仏前の灯明用の油が汲めども尽きなかったことに由来する。西国三十三所霊場の中興者と伝承される花山法皇は徒歩で巡幸し、当寺を第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺)、杖、及び三首の御詠歌を奉納したと伝え、鎌倉時代には後白河法皇が花山法皇の跡を慕って同行千有余人を従えて巡幸したという。なお、西国三十三所巡礼について触れた最も古い史料である『寺門高僧記』所収の「行尊伝」及び「覚忠伝」では、第三十三番の霊場は三室戸寺になっており、園城寺(三井寺)の僧・覚忠が三十三所霊場を巡礼した応保元年(1161年)には、華厳寺は満願所ではなかった。また、三種の御詠歌(後出)のうち、「世を照らす」の歌は作者が判明しており、花山法皇ではなく、前出の覚忠の作歌である。建武元年 1334年足利氏と新田氏の戦乱が起こり、新田氏一族堀口美濃守貞満の乱をはじめとする戦乱で幾度となく諸堂伽藍を焼失するが、本尊ならびに脇侍等は山中に移し難を逃れた。江戸時代には薩摩国鹿児島慈眼寺住職道破拾穀上人によって再興された。総門をくぐると、左右にソメイヨシノの桜並木、土産物店、飲食店、旅館などの立ち並ぶ参道が続き、距離にして約1km、徒歩10分ほどで仁王門に達する。仁王門から本堂まではゆるやかな登りの石畳の参道となり、右手には放生池、地蔵堂、茶所、一乗院、十王堂、羅漢堂、英霊堂、三十三所観音堂、左手には法輪院、明王院、一切経堂、観音勢至像、本坊などがあり、本坊の一画には大師堂、内仏客殿、庫裏が建つ。参道突き当りの石段を上ると本堂があり、その右手に鐘楼堂、本堂背後には阿弥陀堂、笈摺堂、子安堂、そこからさらに石段を上った先に満願堂が建つ。このほか、満願堂から徒歩約意1時間ほどのところに奥の院がある。山内には他に妙法ヶ滝、「菅原道真参籠の岩屋」などがある。本堂本尊の十一面観音立像は、厳重な秘仏で、写真も公表されておらず、制作年代、構造等の詳細は不明である。西国三十三所巡礼の中興者とされる花山法皇の一千年忌を機に、2008年(平成20年)から2010年にかけて、西国三十三所の全札所寺院にて「結縁開帳」が行われ、華厳寺の本尊は2009年3月1日から3月14日まで開帳された。寺や西国三十三所札所会の発表によると、1955年(昭和30年)以来の54年ぶりの開帳であった。華厳寺本尊は明治時代までは33年毎の開扉、大正時代から1955年までは7年に1回の開扉であったが、同年以降、定例の開扉は行われなくなった。本尊を実見した人の話として久野健(美術史家)が伝えるところによると、十一面観音像は榎の一木造、像高7尺5寸、像身に華厳経を書し、衣には三千仏像と諸仏の三昧耶形を描く特異な姿の像であるという。

出典:wikipedia

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