八名 信夫(やな のぶお、1935年8月19日 - )は、俳優、元プロ野球選手。岡山県岡山市出身。血液型B型。悪役商会所属。本名は同じ。父の亀億(ひさお)は国鉄岡山駅の助役を終戦後に退職し、芝居小屋兼業の映画館を経営していた。9歳で1945年の岡山大空襲に遭遇し、父の命で母・姉とともに後楽園に逃れて助かっている。その後疎開先の平島(現・岡山市東区)で終戦後に連合国軍の兵士がキャッチボールに興じる姿を見たことがきっかけで、野球を始める。父はテニス選手だったためスポーツには理解があり、逆に劇場主として役者と接して生活を知っていたことから、役者になることには反対だったという。のちに八名がプロ野球入りしたときに父は東映フライヤーズが岡山でキャンプを張る援助もしたが、八名が23歳の時に肝臓がんのために亡くなっている。出身小学校の岡山市立出石小学校は都市空洞化によるドーナツ化現象で児童数が減少し、2002年3月に廃校となった。閉校式には八名による講演会が行われた。岡山東商業の2学年先輩に、のちに大洋ホエールズで活躍する秋山登・土井淳がおり、明治大学に進学していた。その縁から修学旅行のとき、神宮球場で明治大学の試合を観戦して進学先に決める。しかし、先輩部員からの「しごき」に耐えられずに2年生のときに中退、1956年にプロ野球・東映フライヤーズに投手として入団。3年目の1958年、日生球場での近鉄パールス戦の試合中に腰を骨折して入院、選手生命を断たれて現役を引退した。東映フライヤーズ、北海道日本ハムファイターズOBで組織する『フライヤーズ・ファイターズOB会』のメンバーでもある。野球選手引退後、親会社の東映専属の映画俳優となる。俳優転向の理由は、東映本社社長であり、東映フライヤーズオーナーでもあった大川博から、「長嶋茂雄や王貞治に打たれるより、高倉健に撃たれろ!」と言われたことがきっかけであったという。初めて出演者として名前の出た映画は『遊星王子』。ただし宇宙のギャングという設定で、顔の部分が覆われた衣装だった上、同じ衣装の出演者が複数いたため、映画を見ても自分がどこに出ていたかわからなかったという。駆け出しのころ、宿舎の「八名様」と書かれた自室を開けたら、布団が8組置いてあったという(「やな」を「はちめい」と読み違えられた)。大部屋俳優よりもさらに下という境遇からのスタートであったが、「体が大きいから小さい奴が撃たれるより迫力があるはず」と売り込んだことがきっかけとなり、悪役として定着するようになった。ギャングや悪党を専門に演じる俳優集団悪役商会を1983年に結成し、リーダー(会長)となる。刑事ドラマでのヤクザ・暴力団組長・凶悪犯、時代劇での用心棒・悪徳役人・妖術使いなど多くの悪役を演じた。1985年にはアニメ映画『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』のギルモア将軍役で声優に初挑戦している。バラエティ番組には『今夜は最高!』(日本テレビ)ではじめて出演し、その後『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)のコーナー「ひょうきんベストテン」にも出演した。1990年代、バラエティ番組において「1050回ぐらい殺されたかな」と、悪役を演じて殺された回数の多さを述懐したことがある。最近は悪役俳優のイメージを脱却し、孫と遊ぶ優しいおじいちゃんの役など個性派俳優としての活躍が目立つようになっている。岡山男の気風を歌う「野風増」を橋幸夫、河島英五らとの競作で自ら歌いレコード化する計画があったが、訳あって断念せざるを得なかった。2014年5月5日、ヤフードームでおこなわれた福岡ソフトバンクホークス対北海道日本ハムファイターズ戦で始球式に登板。この始球式は、八名がCMに出演しているキューサイが、ソフトバンクのチームスポンサーとなったことで実現したものだったが、引退から56年ぶりのマウンドでの投球はワンバウンドとなった。また、対戦相手が現役時代に所属した東映の後身である日本ハムである点につき「ちょっぴり複雑な立場での始球式登板」と書いたメディアもあった。父親が鉄道員で幼少時代に鉄道官舎に住んでいたことから、蒸気機関車には思い入れがある。黒柳徹子の影響を大きく受けている。「俺も何か役に立つことはあるだろう」と思い、新幹線で走っている子供を「おめーら、塩をかけて焼いて食うぞ」と叱ったりして、他人の子供を愛情を持って教育している。悪役が犯罪を犯したら洒落にならないというのが信念で、悪役商会では軽微でも犯罪を犯した役者は問答無用で脱退させている。
出典:wikipedia
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