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ジョン・ラーベ

ジョン・ハインリヒ・デトレフ・ラーベ(John Heinrich Detlef Rabe, 1882年11月23日 - 1950年1月5日)は、ドイツ人商社員。シーメンス社の中国駐在員(のち中国支社総責任者)として約30年に渡って中国に滞在し、日中戦争の南京攻略戦時には民間人の保護活動に尽力した。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)南京支部副支部長。南京安全区国際委員会委員長。ドイツ語の発音ではヨーン・ラーベのほうが近いが、英語読みである「ジョン」の表記が一般的である。なぜなら「ラーベが生まれた港町ハンブルクでは、当時英語名のこの名前がドイツ人にもしばしば命名され、発音も英語であったためである」とラーベの長女が梶村太一郎に証言している。帝政ドイツ時代のハンブルクに生まれる。商社での修業ののちアフリカにわたって数年を過ごし、1908年に中国に移り、1910年からシーメンス社の中国支社で勤務。一介の商社員として瀋陽、北京、天津、上海、そして南京と中国各地を転勤する。その間、中国は清朝から中華民国へと移り変わり、さらには日本の進出によって1932年に満洲国が建国される。母国ドイツでは1918年にドイツ革命の勃発によって帝政ドイツは終焉しワイマール共和国が成立、さらに1933にはアドルフ・ヒトラー総統率いるナチ党が政権を奪取しナチス・ドイツとなるなど激動の時代を迎えていた。ナチス・ドイツ成立時、中国では最古参のドイツ人であり、ワイマール期に引き続いてドイツ政府と強いコネを持ち続ける巨大複合企業シーメンスの中国支社のトップとしてたまたま南京にいたラーベは、ナチス南京支部副支部長に就任する。この頃より糖尿病の持病があり、南京市にてインスリン治療を受けていた。1937年、日中戦争が勃発し、日本軍による南京攻略戦の際に、他の十数人の外国人と共同で組織した南京安全区国際委員会の委員長となって、中国民間人の保護に努める。そのほか自分の所有する土地にハーケンクロイツ旗を掲げ、602人といわれる避難してきた民間人を戦禍から守ろうとした。南京陥落後は、非人道的行為の防止に尽力する。1938年2月28日に南京からの退去を日本軍に命ぜられ、ドイツに帰国したラーベは母国ドイツが日本・イタリアとの三国同盟を予定していることを知り、これに反対する政治活動を開始する。ベルリンその他で日本軍の残虐行為を喧伝するフィルムの上映・写真の展示を行うとともに、ヒトラーに上申書を提出し、日本軍による非人道的行為を止めさせるよう働きかけることを提言した。しかし、政府からはまったく相手にされないどころか、直後にゲシュタポによって逮捕勾留される。シーメンス社の介入によってすぐに釈放されたが、写真の類を没収されるとともに、以後公での発言を禁止された。シーメンス社はその後も彼を雇用し続け、ラーベの身の安全を確保するためアフガニスタンに一時的に転勤させた後、終戦までベルリン本社で海外出張する社員の世話をする庶務係として勤務させた。失意のラーベはこの期間に、後に『ラーベの日記』として再発見されることになる草稿を、何年にも渡って書き綴っていたようである。戦後もシーメンス社でごく僅かな期間働いたが、ナチ党員であったことを理由にソ連軍とイギリス軍に相次いで逮捕され、激しい尋問を受けた。イギリス軍政当局によって労働許可を剥奪され、長い非ナチ化のプロセスを経験させられた。非ナチ化が完了して釈放されたのは1946年6月であったが、その後も周囲から元ナチ党員としての非難を受け、貧しい生活を余儀なくされることになった。1948年より南京市から少額の年金を支給されていたが、ほどなく国共内戦によって中華民国政府が南京市を追われたために打ち切られるなど、戦中・戦後の混乱の中で不遇な生活を送った。1950年に脳卒中のため死去。墓所はベルリン・シャルロッテンブルク地区のにある。ラーベの日記は、のち1996年に孫のトーマス・ラーベおよび当時ラーベ家の食客であったエルヴィン・ヴィッケルト(, 元ドイツ中国大使)によって出版された。英語、中国語、及び平野卿子によって『南京の真実』の邦題で日本語に翻訳されている。ラーベの日記の日本語訳である『南京の真実』(講談社、1997年、のち講談社文庫、2000年)について、日独平和フォーラムベルリン代表の一人である梶村太一郎は、多数の誤訳や内容の改竄・捏造について指摘し、「原書とは似ても似つかぬ通俗な“歴史読物”になってしまっている」として批判している。梶村は、日本語訳本の帯にヴィッケルトの言葉として引用された「南京のシンドラー」という表現について、ヴィッケルト自身は「ラーベは“南京のシンドラー”ではない」と原著に書いているのに、「なぜか原書と正反対にされている」と指摘したうえで、さらに原著における「ラーベは“南京のシンドラー”ではない」という文章が翻訳では「抄訳」という形で削除されている、と指摘している。平野の訳では、この本の276頁、ラーベと『ラーベの日記』自体についてのヴィッケルトの解説として、「一九九六年十二月、彼の日記が公表されたとき、『ニューヨーク・タイムズ』はラーベを「南京のオスカー・シンドラー」と称えた」と訳され、それに続いて共通点を挙げた記述の後、「オスカー・シンドラーの場合は、どこまで商業上の利益がからんでいたのか、判然としないところがあった。だがジョン・ラーベの動機は間違いなく純粋だ」と訳されている。さらに、訳書を校閲・解説した横山宏章による「『中国のシンドラー』と呼ばれるのも当然」という発言に対して、「なぜ姑息な隠蔽で原書と異なる人物像を宣伝するのか」「もし映画で有名なシンドラーにあやかる商業主義によるのであれば、学者として恥ずかしくはないのだろうか?」として批判した。ほか、同訳書には、ユダヤ人、日本軍関係について原著にはない表現が加筆されたりしており、原書の持つ史料としての価値は「完全に失われ」ているとして批判した。日本軍の侵攻によって、30年間の努力を無駄にされて帰国せざるをえなかったラーベは政治的に中立的人物であったとは言いがたいという主張がある。当時のドイツは中国戦線においては日本の同盟国ではなく、第一次世界大戦における青島攻防戦での旧交戦国であり、アメリカ・イギリスとともに、蒋介石の国民党軍を軍事的・財政的に支援する敵対勢力であった。ドイツは国民党に莫大な借款を与え、蒋介石軍の用いていた武器の70%がドイツ製であったといわれるほどの多量の武器を供与し、軍事顧問団の派遣まで行っていた。またシーメンス社もラーベを通じて国民党に電話施設や発電所施設を売っていた。一方でドイツは先の第一次大戦の敗北によって、表向きは武器の輸出を禁止されていた。このため、シーメンス社など民間会社の駐在員たちが中国への武器輸出を裏で仲介していたのではないか、特に中国滞在30年の最古参の社員かつナチス党南京副支部長でもあったラーベがこれに全く関与していなかったとは考えにくいという主張がある。田中正明は「ラーベの所属するシーメンス社は、兵器や通信機の有名な製作会社である。ラーベの納めた高射砲は当時日本にもない優秀なものであった」と、ラーヘが対中国国民党の武器商人であったという説を発表した。また、アメリカ・ハーバード大学の教授は、シーメンス社がオランダの複数の会社を通じて中国へ武器を売っていたと指摘し、成城大学教授の田嶋信雄も「1920年代のラーベは武器貿易にかかわった」と述べている。南京でラーベが暮らしていた住居は、2006年にドイツ政府の資金拠出(225万元)によって修理・保存されており、彼の銅像も置かれている。ラーベのドイツでの知名度は低かったが、ヨハネス・ラウ大統領は中国訪問の際に記念碑を訪れてその功績を顕彰した。ハイデルベルクにもラーベの名を冠した施設と胸像がある。2009年に、ラーベを主人公としたドイツ・中華人民共和国・フランスの合作映画 『ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜』(20世紀フォックス配給、原題 "John Rabe"、英国タイトル "City of War - the Story of John Rabe")が製作され、同年4月2日にドイツで、続いて同28日には中国でも公開された。同年11月にはベルギー、フランス、イタリア、スペインでも公開されている。第59回ドイツ映画賞にて、主演男優賞(ウルリッヒ・トゥクル)・作品賞(ベンヤミン・ヘルマン、ミシャ・ホフマン、ヤン・モイト)・美術賞(屠居華)・衣装賞(リジー・クリストゥル)の4部門で受賞した。

出典:wikipedia

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