スタン・ミュージアル(Stanley Frank “Stan” Musial, 1920年11月21日 - 2013年1月19日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ワシントン郡のプロ野球選手(外野手、一塁手)。愛称は「The Man(男の中の男)」。現役生活の全てをセントルイス・カージナルスで送り、人格者として知られた。背番号6はカージナルス初の永久欠番。ポーランド系移民の父とチェコ系移民の母の間に生まれる。高校時代から抜群の運動能力を発揮し、野球のみならず、バスケットボールでも大学から奨学生の誘いが来るほどだった。にカージナルスと契約。投手としてマイナーで実績を積み重ねていくが打撃でも非凡な才能を発揮し、登板日以外は外野手としても活躍していた。に試合で外野守備の際にダイビングキャッチを試み、左肩をグラウンドに強打したことで投手を諦め、打撃に専念することになる。9月17日のブレーブス戦でメジャーデビュー。ダブルヘッダーとなったデビュー戦で6安打を放ち、ブレーブスのケーシー・ステンゲル監督をして「あの小僧、5年やそこらで消えるタマじゃないぞ。10年、15年、いやもしかしたら20年近くもつかもしれん」と言わしめた。ミュージアルはその後ステンゲルの予測を上回る22年間メジャーでプレイした。はフルシーズン1年目で打率3割を達成しオールスターにも初出場。チームもワールドシリーズでヤンキースを破り、世界一に輝いた。これ以降カージナルスは5年間で3度のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。は初の首位打者、リーグ最多得点に加え、最多安打、最多二塁打、最多三塁打の塁打三冠も獲得しMVPを受賞する。は兵役で試合への出場はなかった。は3年前と同様に首位打者、最多得点、塁打三冠獲得でMVPを受賞。にはタイ・カッブ以来史上2人目の1シーズン4回の5打数5安打を記録。特に4度目となった9月22日は両手首の故障により満足にバットが振れない中で、5スイング5安打を記録した。首位打者、打点王を獲得し、本塁打は自己最多の39本で1位と1本差の2位。降雨ノーゲームとなった試合での本塁打1本が記録されていればナ・リーグ史上5人目の三冠王になるところだったが、3度目のMVPを受賞した。から3年連続で首位打者を獲得。5月2日にはダブルヘッダー第一試合で3本塁打、第二試合で2本塁打、史上初の一日5本塁打を記録した。7月12日ミルウォーキー開催の第22回オールスターゲームのスコア5-5の延長12回裏、先頭打者として打席に向かうとき、自軍のベンチに向かって「残業手当なんかいらないだろう。これでこの試合は終わりにするからな」と宣言し、フランク・サリバンの初球を叩いて右翼席へサヨナラソロ本塁打を放つ。37歳で7度目の首位打者を獲得した。MVPの投票では二冠王ハンク・アーロンの239ポイントに9ポイント及ばなかった。5月13日には史上8人目となる3,000本安打を達成。シーズン終了後にカージナルスが日米野球で来日した際は、稲尾和久と杉浦忠から本塁打を放っている。に初めて打率が3割を割り込み、3割以上は16年で途切れる。は42歳でリーグ3位の打率.330を記録した。8月12日に今シーズン限りでの引退を表明し、9月25日に背番号6は永久欠番となり、9月29日の試合で引退。引退時に29のリーグ記録、17のメジャー記録、9のオールスター記録を保持していた。引退後はカージナルス球団副社長も務め、1967年のワールドシリーズ制覇時はGMとして貢献した。1969年、野球殿堂入り。2006年にはDHLホームタウン・ヒーローズに選出されている。2013年1月19日、セントルイスの自宅で死去。。ちなみに、同じくMLB殿堂入り(1996年)を果たしたアール・ウィーバーや大横綱の大鵬幸喜も同じ日に没している。
出典:wikipedia
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