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一言坂の戦い

一言坂の戦い(ひとことざかのたたかい)は、元亀3年(1572年)10月13日に遠江国二俣城をめぐり、武田信玄と徳川家康の間で行われた戦い。家康の退却戦である。信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、二俣城の戦い(あるいはそれを含めて三方ヶ原の戦い)の前哨戦である。元亀3年(1572年)、武田信玄は信長包囲網に応える形で西上作戦を発動する。信玄は軍を3つに分け、山県昌景率いる5,000の兵を三河へ、秋山虎繁(信友)率いる伊那衆を美濃へと先行させる。そして10月10日には、自ら率いる本隊3万(北条氏政からの援軍も含む)を信濃の青崩峠から徳川領の遠江へと侵攻させた。本隊の侵攻が始まると、北遠江の有力国人だった天野景貫は即座に信玄に寝返り、居城・犬居城を明け渡して侵攻の先導役を務める。犬居城で信玄は馬場信春に5,000の兵を預けて西の只来城に向かわせ、そのまま南進して要所・二俣城へ向かった。一方、山県隊は、すでに降伏していた奥三河の山家三方衆を加えて、遠江へ転進し信玄本隊との合流を図っていた。二俣城は、徳川氏の本城・浜松城だけでなく、その支城・掛川城、高天神城にも繋がる要所(扇の要)で、徳川氏にとって遠江支配の要であった。しかし、家康は三河国への対処などもあって、防衛には8,000人余しか動員できず、さらに盟友の織田氏からの援軍も望めない状況にあった。それでも天竜川を渡らせたくない家康は、本多忠勝・内藤信成を偵察に先行させ、自身も3,000の軍勢を率いて出陣し、天竜川を渡河した。しかし、この時、武田軍は家康の予想よりも遥かに早く進軍していた。先行していた本多・内藤率いる偵察隊は武田の先発隊と遭遇する。偵察隊は刃を交えずすぐに退却するも、武田軍は素早い動きで徳川軍を追撃し始め、太田川の支流・三箇野川や一言坂で戦いが始まる。徳川軍の望まぬ形で開戦し、また兵の多寡もあり、家康は撤退を決める。本多忠勝と大久保忠佐は徳川本隊と内藤隊を逃すために殿(しんがり)を務め、一言坂の下という不利な地形に陣取った。急戦で陣形もままならぬ本多隊を、武田軍先鋒の馬場信春隊は容赦なく突撃し、3段構えの陣形のうちの第2段まで打ち破る。また、信玄の近習である小杉左近は、本多隊の退路を阻むために、本多隊の後方(一言坂のさらに下)に先回りし、鉄砲を撃ちかけた。これに対し、忠勝は、大滝流れの陣をとり、坂の下で待ち受ける小杉隊に敵中突破し逃走を図る。これは無謀な突撃で本多隊は死兵であったが、左近はこれを迎え撃たず、道を空けるように指示して本多隊を見逃す。このとき、忠勝は左近に名を聞き感謝の言葉を述べたと言われる。こうして本多忠勝の働きによって家康率いる本隊は無事に天竜川を渡り切ることに成功し、撤退戦を無事に完了させた。徳川軍は無事に浜松城まで撤退できたものの、武田軍はそのまま二俣城を包囲してしまう(10月16日)。家康はこれといった対処を取ることができず、12月19日に二俣城は陥落した(二俣城の戦い)。これによって家康の遠江支配は大きく揺らいだ。二俣城陥落と前後して、家康は織田氏の増援を受けており、陥落後、武田の次の狙いは浜松城とみて篭城戦を決め込むも誘い出され、三方ヶ原で大敗した(三方ヶ原の戦い)。一言坂の戦いの後、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌・落書が登場した。これは小杉左近が書いたと言われる。「本多平八」は本多忠勝のことである。「唐の頭(からのかしら)」とはヤクの毛で作られた兜のことで、中国四川省やチベット原産(つまり「唐」原産)の日本では珍しい品であった。一説に寄れば家康は難破した南蛮船からこれを入手し、愛用していたという。また、後年これを真似た狂歌として「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」というものがある。

出典:wikipedia

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