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北別府学

北別府 学(きたべっぷ まなぶ、1957年7月12日 - )は、鹿児島県曽於郡末吉町(現曽於市)出身の元プロ野球選手(投手)。宮崎県立都城農業高等学校で1年生からエースとして活躍。2年上に江川卓(作新学院)がおり、打席で彼の剛速球に驚愕した。1974年、2年生時の夏の甲子園県予選では準決勝で延岡高に敗退。翌1975年の春季九州大会1回戦では、伝習館高を相手に完全試合を達成する。しかし同年夏も県予選準決勝で日南高に完封を喫し、甲子園には出場できなかった。1975年のドラフト会議にて1位指名され広島東洋カープに入団した。甲子園には出場していないため、この時はまだ全国的には無名の存在で、広島スカウト陣以外には日本ハムファイターズ監督に就任したばかりだった大沢啓二が目をつけているだけだった。大沢は関係者から得た情報を基に北別府の指名を検討していたが、フロントやスカウト陣の反応は薄く、結局獲得は見送られてしまったという。大沢は後に、「無名の選手だったから獲得しようと思えば簡単にできた。指名できなかったのが心残りだ」と語っている。同期には山根和夫、長内孝、小林誠二らがおり、後のカープの主力選手が揃っている(山根は1977年入団)。入団1年目から1軍で登板し、勝ち星を挙げる。2年目の1977年から先発ローテーション入りし3年目の1978年に10勝を挙げると、この年から1988年まで11年連続二桁勝利を達成。1979年にはチームトップの17勝を挙げ、チームのリーグ優勝に貢献した。1982年には20勝し最多勝と沢村賞を獲得。1986年には9月、10月で7勝0敗を記録しチームのリーグ優勝に大きく貢献。最多勝、最優秀防御率、最高勝率、MVP、沢村賞に輝いた。優勝した試合は8回まで投げきっており、9回も続投する予定だったが、自ら直訴し、最後は抑えの津田恒実にマウンドを任せたという美談がある。津田は家族ぐるみでも親交のあった後輩で、後に彼が脳腫瘍を発症した際にも、しばしば見舞っていた。1989年、1990年は10勝に届かず限界説が囁かれたが、1991年に11勝を挙げ復活すると同時に最高勝率のタイトルを獲得し、チームのリーグ優勝に貢献。1992年7月16日、対中日ドラゴンズ戦で球団史上初の200勝を達成、これは同時に日本プロ野球における20世紀最後の200勝到達でもあった。オフの契約更改では広島初の1億円プレーヤーとなった。その後は成績が下降し、1994年に、この年限りでの現役引退を表明。1994年8月21日の巨人22回戦で松井秀喜から本塁打を浴び、金田正一の379を上回りセ・リーグの最多被本塁打記録となる380を記録した。またホーム最終戦となる9月20日の巨人戦では引退登板が予定されていたが、この年のセ・リーグは広島・巨人・中日の3チームが終盤戦まで三つ巴の激しい優勝争いを繰り広げており、この日の試合も展開が二転三転する状況で遂に登板の機会に恵まれず、試合後に引退セレモニーのみが執り行われた。なおこの試合は8対7で広島が勝利し、引退試合は翌1995年3月12日のオープン戦にて行われた。現役時代に残した通算213勝は日本プロ野球歴代第18位記録、先発勝利数200勝は歴代第10位記録で、これらは共に広島東洋カープの球団記録でもある。中日戦に強い中日キラーとしても有名で、1978~80年は12連勝、1983~86年は13連勝を記録、通算52勝27敗(勝率.658)という成績を残している。なお、200勝目を挙げたのも中日戦である。一方、日本シリーズには5回出場(1979年・1980年・1984年・1986年・1991年)し、11試合(先発は6試合)登板で防御率3.21ながら0勝5敗と一度も勝利投手になれなかった。引退後は広島ホームテレビ・テレビ朝日野球解説者に就任し、その後2001年から2004年まで広島の投手コーチを務めた。2005年より再び広島ホームテレビ解説者を務めている。2005年から2007年まではデイリースポーツ野球評論家も兼任。2007年9月、自身の野球人生を綴った自伝「それでも逃げない」(グラフ社刊、友野康治との共著)を出版、この中で、娘が医学生であることを明かしている。2010年からは沢村賞の選考委員を務める。趣味は家庭菜園。妻は、元ミス日本である。2012年1月13日、野球殿堂に競技者表彰にて選出された。2013年:広島ホームテレビ『恋すぽ』広島FMラジオ『北別府学の裏ブログ』と2本のレギュラーを持つ。寡黙な現役時代とは裏腹に野球のことには的確に厳しく述べ、私生活や日常のことは非常に楽しく語る北別府の番組の評判はとても良い。また、現役の選手の中に混ざって20位以内に入るほどの人気ブロガーとしても有名。現在は、芸能プロダクションのホリプロ所属。2015年:趣味の家庭菜園にまつわるコラムを『中国新聞SELECT』にて連載開始。直球の球威や変化球の切れ味に飛び抜けたほどのものはなかったが、それらを補って余りあるほど優れた制球力から「精密機械」の異名を取り、投手王国と呼ばれた1980年代の広島の主軸として活躍した。直球は滅多に投げず最高球速は144km/hで、球種はスライダー、カーブ、シュート、シンカーなどであった。特にスライダーの出し入れで内と外を使い分ける投球術が持ち味だった。全盛期は非常に理想的な美しい投球フォームであり、広島大学の研究者が北別府の肩の動作解析を行い、力学的にどこにも無駄な力が入っていない、自然な肩の回転に驚いたというエピソードがある。精密機械と呼ばれるほどの抜群の制球力を身に着けたきっかけは、プロ入りして間もなく、並み居る先輩投手の投球練習を見て、そのボールスピードに圧倒されたことだったという。速度で敵わないならコントロールを磨くよう心がけ、3年頑張って結果を残せなかったら野球を辞めて故郷に帰ろうと考えていたと、後に本人は語っている。そのコントロールの良さを示すエピソードとして、本塁上の三角形地点に置いた3個の空き缶を、たった3球投げただけで全て倒してのけたという話がある。バッテリーを組んでいた達川光男もその投球について「ミットを動かさずに捕れる」と高く評価しており、広島投手コーチ時代に「筋肉番付」で「ストラックアウト」に挑んだ際には、現役選手ですらなかなか達成できないパーフェクトを成し遂げていた。そのようにコントロールに絶対の自信を持っていたからか、現役時代は審判の判定にクレームをつけることが多かった。野球中継の解説においても「最近のピッチャーはおとなしいですね。私は審判とも戦っていましたよ」と語っている。ストライク・ボールの判定に疑問のある場合には、球審を試すように平然と続けて寸分たがわない同じコースの球を連投して球審を試すこともあった(同じくコントロールに絶対の自信を持っていた江夏豊も同様のことを行っている)。セリーグの審判部長だった田中俊幸は北別府について、「他の投手が先発した試合の倍は疲れた」と述べている。生涯記録したボークは2で、初登板から2420回と1/3イニングボークなしという記録を達成している。完投数が著しく減少した現代の野球界には否定的であり、「今の投手は7回を抑えていても8、9回はわからんというピッチングですもの。これはつまらない野球ですよ」と批判している。

出典:wikipedia

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