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出雲 (装甲巡洋艦)

出雲(いずも)は、日本海軍の装甲巡洋艦。出雲型の1番艦。日露戦争や第一次世界大戦、支那事変に参加し、太平洋戦争で戦没するまでの45年間現役にあった。六六艦隊計画(戦艦6、装甲巡洋艦6)の一艦としてイギリスに発注された。日露戦争では上村彦之丞提督率いる「上村艦隊」の旗艦として参加し、殿(しんがり)艦を務めた姉妹艦磐手と共に活躍している。日露戦争中の出雲は通商破壊戦を行うウラジオ艦隊を警戒して対馬海峡に展開していたが、その努力も虚しく1904年(明治37年)6月15日に陸軍の輸送船「常陸丸」がウラジオ艦隊によって撃沈される常陸丸事件が発生してしまう。降伏を拒否して小銃で応戦した陸軍将兵達の悲壮な最期が国内に伝えられると、濃霧によりウラジオ艦隊を取り逃がした上村や出雲の所属する第二艦隊は国民からの強い批判にさらされた。演説会や新聞では「無能」や「露探(ロシアのスパイ)提督」などと中傷され、激昂した暴徒が上村将軍の家に押し寄せて石や短刀を投げつける事件も発生している。この事態に上村の部下たちは憤慨したが、上村は「家の女房は度胸が据わっているから大丈夫」と笑って取り合わなかったといわれる。上村の妻は毎日寺参りをして敵艦隊発見を祈願していた。常陸丸事件から2か月後に発生した蔚山沖海戦では、第二艦隊がついにウラジオ艦隊の装甲巡洋艦リューリクを撃沈した。上村将軍は残存する敵艦の追撃を指示するも「我レ、残存弾数ナシ」の報告を受け結局攻撃を断念した。撃沈されたリューリクは日本の艦船を多数撃沈しており、上村中将にとっては常陸丸事件の件でも恨みの深い相手であったが、沈みながらも味方艦を逃がすために砲撃を続ける姿に感銘を受けた日本艦隊は生存者の救助に当たった。この行動は国内外で賞賛され、後にこの救助活動を元にした「上村将軍」という歌が作られている。スラバヤ沖海戦で敵兵を救助した工藤俊作もこの歌を祖母から子守唄のように聞かされていたとされている。上村将軍(一部) 作詞:佐々木信香 作曲:佐藤茂助この際、出雲に救助されたリューリクのロシア将校が艦内に小鳥が飼われているのを見つけ「この小鳥は前から飼っているのか」と聞くと、日本人通訳が「あれはリューリックの溺者を救助にいったものが海に浮かんでいるのを見つけて可哀そうだから捕えてきて飼っているのだ」と答えると、ロシア将校は涙を浮かべてそれは自分が飼っていた鳥であること、通商破壊戦で多くの民間船を撃沈していたため報復されると思っていたことを語り、神に黙祷を捧げたというエピソードが残っている。艦を指揮した上村中将は非常に感情の激しい人物として有名であるが、鳥が好きであった。この際救助した小鳥かは不明だが、肩に小鳥を乗せて笑みを浮かべている写真を何枚か残している。その後の日本海海戦でも上村の指揮のもとで参加。舵が故障した戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」を見てバルチック艦隊が北へ向かうと誤認した旗艦「三笠」は、これの追撃を指示したが、上村と副官の佐藤鉄太郎中佐は舵の故障と即座に判断、三笠の命令を無視して「我に続け」の信号旗を掲げながらバルチック艦隊に突撃。巡洋艦中心の第2戦隊が、戦艦中心のバルチック艦隊に突撃するという前代未聞の作戦を実施し、結果的に挟撃することに成功した。クニャージ・スヴォーロフ以外のバルチック艦隊の後続艦は南東方向に舵を取ってウラジオストクへの離脱を目指していたため、三笠の命令に従っていれば残存艦艇に逃げられていた可能性は高く、日本側の勝利に大きく貢献する活躍となった。1910年には日露戦争の英雄的人物である秋山真之も艦長を務めている。1913年11月には、ウエルタ将軍のクーデターに端を発する内戦で混乱するメキシコに邦人保護を目的に派遣された。翌年の1914年に第一次世界大戦が勃発すると、装甲巡洋艦「浅間」、戦艦「肥前」(旧「レトヴィザン」)とともに遣米支隊が編成され、出雲は旗艦としてアメリカ西海岸を防衛する任務に当たった。また、1917年8月に第二特務艦隊の増援部隊として地中海のマルタ島に派遣され、中央同盟国の潜水艦部隊による通商破壊から船団を護衛する任務に従事した。1919年に御親閲式(第一次大戦の遣欧艦隊に対する閲兵)が行われた際には大正天皇が乗艦する御召艦(おめしかん)を務めた。その後は練習艦として遠洋航海に6回参加し、士官候補生達を乗せてヨーロッパや米国など世界中を回った。1922年の「ブラジル独立100年祭記念観艦式」の際には、同型艦の「磐手」や「浅間」と共に参加している。1922年9月1日にはワシントン海軍軍縮条約の影響を受けて艦種が「一等海防艦」に変更された。1934年からは九〇式二号水上偵察機を搭載するようになった。支那事変に際しては第三艦隊の旗艦として上海に派遣された。1937年に発生した第二次上海事変では、上海に停泊していた出雲が8月14日に中華民国軍爆撃機の攻撃を受けたが、軽巡洋艦川内と共に撃退している。同月16日には中国魚雷艇の攻撃を受けたが幸いにも無傷で済んだ。なお、攻撃した中国魚雷艇は撃沈。後に引き上げられて日本軍に使用されている。1941年12月8日、真珠湾攻撃によって日米が開戦したこの日に出雲は米国の砲艦「ウェーク」を拿捕、投降を拒否した英国の砲艦「ペテレル」(w:HMS_Peterel_(1927))を撃沈している。なお、ウェークは第二次世界大戦で唯一敵に降伏したアメリカ海軍の艦船となっている。戦争末期に対空火器が増設されたが戦闘に出ることはなく瀬戸内海で練習艦として運用された。1945年7月24日に呉軍港空襲で米艦載機の攻撃を受け、至近弾により転覆着底、3名が死亡した。姉妹艦「磐手」も2日後に同じく呉軍港で撃破されている。広島県、江田島市には、共に小用港沖で戦い戦没した戦艦「榛名」と合同の戦没者留魂碑が小用港沖を望む丘の上に建てられている。

出典:wikipedia

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