長谷川 時雨(はせがわ しぐれ、1879年(明治12年)10月1日 - 1941年(昭和16年)8月22日)は、劇作家・小説家。雑誌や新聞を発行して、女性の地位向上の運動を率いた。本名、長谷川ヤス。画家・随筆家の長谷川春子は末妹。東京府日本橋区通油町1丁目(現在の東京都中央区日本橋大伝馬町3丁目)に、深造・多喜の長女として生まれた。深造は日本初の免許代言人(弁護士)の一人で、東京市会の有力者でもあった。多喜は御家人の娘であった。5歳から12歳まで、秋山源泉小学校で寺子屋式の代用小学校で教育を受け、かたわら、長唄、踊り、お花、お茶、当時流行の二弦琴などの女子の躾けを受け、祖母には芝居へ連れられた。女に学問は不要という母に隠れて本を読み、14歳から行儀見習いに奉公した池田侯爵家でも、夜分は読書に耽った。17歳のとき肋膜炎を病んで家に戻り、佐佐木信綱の竹柏園に通って古典を学んだ。1897年(明治30年)18歳の時に、父の命で鉄問屋の成金の息子と結婚させられたが、遊び人で釜石鉱山に追われ、それに嫌々従った3年間、勉強し習作し、1901年、短編『うづみ火』を投稿して『女学世界』誌の特賞に選ばれた。そのときは『水橋康子』を筆名とした。のち、『しぐれ女』、『長谷川康子』、『奈々子』なども使った。1904年(25歳)、帰京し、引責辞職していた深造と佃島の屋敷に住んだ(離婚は3年後)。多喜は箱根で旅館を営んでいた。築地の女子語学校(現、雙葉学園)の初等科に2年通った。岡田八千代と知り合った。1905年(明治38年)、読売新聞の懸賞に応募した戯曲『海潮音』が、坪内逍遙に認められて入選し、逍遙に師事した。そして次々と新作を発表して上演され、人気作者になった。釜石時代から文通した中谷徳太郎との仲が深くなり、1912年の第1次『シバヰ』誌にともに寄稿し、さらに翌年の第2次『シバヰ』5冊を中谷と発行したが、喧嘩別れした。1912年には六代目尾上菊五郎らと『舞踊協会』を作って8回公演し、次いで翌年、『狂言座』を菊五郎と結成したが、公演2回で挫折した。たまたま、甥の育児・事業に躓いた母の面倒見・父の看病・鶴見への引っ越しなどに多用で、劇評は続けたものの、演劇界からは退いた。菊五郎とは生涯の親友であった。文学の面では、1911年『日本美人伝』、翌年『臙脂伝』を刊行。1916年(大正5年)、無名だった三上於菟吉を知り、押し掛けられるように1919年から内縁関係の世帯を持ち、以降は12歳年上の姉さん女房として、三上を世に出すことに努めた。1921年頃から三上は売り出して放蕩し、時雨を悩ませた。父没後の母らの世話に忙しい時期でもあった。1923年(大正12年)、岡田八千代との同人雑誌、『女人芸術』を出したが、関東大震災のため、2号で終わった。1928年(昭和3年)、女性作家の発掘・育成と女性の地位向上のため、商業雑誌『女人芸術』を創刊した。時雨に大人気作家へ押し上げられて女遊びを続ける三上が、費用を負担した。世相のなかで左傾し、たびたび発禁処分を受け、資金に詰まり、1932年の48号目までで廃刊した。『旧聞日本橋』は、同誌に連載された。1933年、『女人芸術』の仲間に励まされ、『輝ク会』を結成して、機関紙『輝ク』を発刊した。今度は、タブロイド判二つ折り4ページの、月刊の小型新聞で、発行・編集人は時雨、発行所は赤坂桧町の自宅、会員の会費で足らぬ分は時雨が自腹でまかなった。『女人芸術』の執筆者、新顔、男性陣を含む大勢が狭い紙面を充実させた。年齢順で、長谷川時雨、岡田八千代、田村俊子、柳原白蓮、平塚らいてう、長谷川かな女、深尾須磨子、岡本かの子、鷹野つぎ、高群逸枝、八木あき、坂西志保、板垣直子、中村汀女、大谷藤子、森茉莉、林芙美子、窪川稲子、平林たい子、円地文子、田中千代、大石千代子 /三上於菟吉、直木三十五、獅子文六、葉山嘉樹、大佛次郎など。会員からの投稿も多かった。『女人芸術』誌の後期の左傾を精算したような、編集だった。会員仲間でピクニックや観劇もした。1936年(昭和11年)、三上於菟吉が脳血栓で倒れ、看病し、彼の新聞連載を代筆した。そして翌年、関東軍が支那事変を始め、『輝ク』は『戦争応援』の方向へ旋回し、1937年10月の『輝ク』は『皇軍慰問号』であった。旋回に会員間の摩擦により、1938年には2度の休刊する。1939年(60歳)、女性の銃後運動を統率する『輝ク部隊』を結成し、慰問袋を募って送り、戦死者の遺族や戦傷者を見舞い、占領地や戦地に慰問団を派遣した。1940年、陸海軍の資金により、文芸誌『輝ク部隊』および『海の銃後』を編んで、紀元二千六百年の前線へのお年玉とし、1941年1月にも『海の勇士慰問文集』を送った。『女人芸術』誌以来の本格的な雑誌であった。その1月から、『輝ク部隊』の『南支方面慰問団』の団長として、台湾・広東・海南島などを約1ヶ月強行軍した。その後も忙しくして、発病し、白血球顆粒細胞減少症のため8月22日早暁、慶應病院で没した。24日芝青松寺で営まれた『輝ク部隊葬』には600人が焼香、鶴見総持寺の長谷川家代々の墓地に葬られた。また『輝ク』は追悼号を出してのち、11月の103号で終刊した。本項および次項で、例えば"z1" とあるのは、全集の第1巻に載っている、の意である。家族から「アンポンタン」と呼ばれていた幼少時の、生家周辺の様子や、そこに住む人々、血縁の人々についての、素朴ながら丹念な観察眼による回想録。1929年4月から1932年5月にかけて「日本橋」と題されて連載された。1935年2月に岡倉書房から『旧聞日本橋』に題を改めて、三上於菟吉の序文を付して1000部限定で単行本化された。1971年に青蛙房から、『季刊日本橋』1935年7月号掲載の「大門通り界隈」、『改造』1935年5月号「鉄くそぶとり」、『東陽』1936年8-9月号「鬼眼鏡と鉄屑ぶとり」、『新女苑』1941年11月-1942年1月号「渡りきらぬ橋」が追加されて復刊された。1983年に岩波文庫刊(「渡りきらぬ橋」を除く)。江戸から文明開化の時代へ移り変わる中で、苦闘する市井の人々の心情が、つぶさに描かれている。大伝馬町にあった大丸呉服店の店員の不自由さや、芸妓たちへの視線は、女性解放雑誌の主宰者らしさも現れている。重版改版は、最新と思われる版のみ / 印の後に記す。各巻の内容は、国会図書館のサイトを検索して見られる。長谷川渓石(1842年(天保13年) - 1918年(大正7年)7月30日、本名深造)は、呉服商の子に生まれた。幼名は虎太郎。家業を嫌って千葉周作の道場で剣術を学び、浮世絵師歌川国芳に絵の手ほどきを受けた。維新では開城された江戸城で官軍として守備に就いた。明治になって代言人となり、吉原の改革に尽力した松本新造の使い込み事件での弁護や、娼妓自由廃業で楼主側の支援がある。初期自由党にも参加した。また東京市会議員もつとめた。嘉永頃から明治初めまでの24年に渡り、江戸市中の出来事や風俗を描いた150図があり、時雨がこのうち50図を一周忌に『実見画録』として刊行(2014年『江戸東京実見画録』として岩波文庫)、また『旧聞日本橋』単行本化に際して挿絵として使われた。また本名での著書『改正訴訟入費償却規則』(1876年)もある。
出典:wikipedia
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