静岡駅前地下街爆発事故(しずおかえきまえちかがいばくはつじこ)は、1980年(昭和55年)8月16日(土)に静岡市紺屋町(現・静岡市葵区紺屋町)の、国鉄(現・JR東海)静岡駅北口側の地下街で発生したメタンガスと都市ガスの2度にわたるガス爆発事故である。15人が死亡、223人が負傷する大惨事となった。静岡駅前、紺屋町ゴールデン街(現・紺屋町名店街)のビルは、1960年代末からビル前の歩道下(一部はビル敷地内)の地下通路を連結する形でビル地階が準地下街を構成しておりゴールデン地下街と命名されていた。1980年8月16日午前9時31分、ゴールデン地下街を形成していたビルの一つである静岡第一ビル地階の寿司店にて小さなガス爆発事故が発生した。すぐに事故を検証するため消防吏員(消防団員を含む)、警察官、静岡ガスの担当者や事故現場となった地下街を撮影するために報道関係者が地下街に入っていった。この爆発は、地下の湧水処理漕に溜まっていたメタンガスに何らか(ポンプ付近)の火が引火したことが原因と考えられている。爆発は小規模なもので寿司店の床と奥の機械室が大破したが、火災の発生には至らなかった。しかし、この爆発によりビル内の都市ガスのガス管が破損し、ガス管から漏れた都市ガスが地下街に溜まっていき、また都市ガスは空気より軽いため直上のビルの上層階にも達していた。地下で現場調査を行っていた消防士が爆発場所の飲食店の奥の機械室に入った時に検知器が高濃度の可燃性ガスを検知したため、地下街からの脱出を指示するとともに排気作業を開始したが間に合わず、午前9時56分に2回目の爆発が起こった。2回目の爆発は大規模なもので、火元となった飲食店の直上のビルは爆発・炎上し、このビルの向かいにあった西武百貨店静岡店や周囲に隣接する商店および雑居ビルなど163店舗にガラスや壁面の破損など、半径100メートルに甚大な被害をもたらし、多くの通行人が重軽傷を負った。事故発生の当日はお盆や夏休み中の土曜日で買い物客も多かったことから数多くの通行人が現場に駆けつけ、写真撮影をする者、応急的な救助活動をする者などで現場はパニックとなった。またこの事故発生の時間帯も負傷者が増えた要因にもなったのではと当時のニュースでは伝えている。後の検証では、爆発時に生じた爆風が建物内で障害物に当たりながら進むことでエネルギーと速度が増大する「乱流現象」が発生し、更にビルの上層階に滞留していた都市ガスへの引火を引き起こしたため、結果として被害を増大させる事態となったことが突き止められた。爆発後はビルへの都市ガスの供給を止める必要があったが、当時の安全基準ではビル内のガス管に遮断弁の設置は義務付けられておらず、ビル内にガスが供給され続けたため火災は長時間続いた。都市ガスの流れを遮断するには、外の道路の中のマンホール内のガス管の遮断弁を手動で閉じる必要があった。都市ガスの供給を遮断すべく静岡ガスの職員が作業をしようとしたが、大規模な爆発で路上に多くの瓦礫が積み重なってマンホールの蓋に辿りつけず、遮断弁を閉じることができなかった。そこで、道路を掘削してガス管に穴をあけて中にバルーンを入れてガスの遮断を行ったが、消火までかなりの時間を要し15時30分に鎮火した。2回目の爆発の瞬間はテレビ静岡と静岡第一テレビが映像(現在のようなVTRではなく、当時報道現場で広く使われていたスクーピック16mmシネカメラ)に収めており、貴重な資料となっている。映像を収めた先記民放2社のカメラマンや記者はともに瀕死の重傷を負った(重体となった者もいたが、のちに全員治癒し職場に復帰)。先記2社では翌日以降のニュースにおいて、爆発の被害を受け破壊されたカメラ機材が公開された。事故の現場となったビルには、テレビ静岡が営業拠点(営業部静岡支社)を構えており、後の営業活動にかなりの支障をきたしたと言われている。また、同じく記者やカメラマンが負傷した静岡第一テレビも現場となったビルの斜め向かいにあるビルに営業拠点を構えていたことから、こちらも窓ガラスの破損など被害を受けている。在静テレビ各社の社史及びNHK静岡放送局の局史には、当時の各社における報道対応が詳細に記されているが、それらによると各局は2回目の大規模爆発を受けて午前10時台に字幕のニュース速報にて第一報を伝えた。その後、NHKでは定時ニュース枠で断続的に情報を伝えたほか、民放局でも昼の定時ニュース枠で現場の取材映像を伝えた。午後になるとJNN以外の各局は在京もしくは在名の系列局から応援取材のヘリコプター(当時、在静局で自社が占有使用できるヘリコプターを保有している社は静岡放送のみであった)が現場上空に飛来し、現場映像を撮影していた。さらに土曜午後は各局共にローカル編成可能な時間帯が多かったことから、在静の民放テレビ局の中にはローカルの報道特別番組を編成したところもある。NHK静岡放送局史『静岡放送局70年のあゆみ』によると、このとき事故報道に全局員を招集して当たっていた同局に、地元静岡出身で夏季休暇のために帰省して実家にいたアナウンサーの山川静夫が事故を知って駆け付け、同局のスタジオから事故の被害者氏名の読み上げ等を行ったという(山川静夫#エピソードも参照)。事故後、ビル管理会社や入居者側と静岡ガスとの間で責任の所在を明確にするべく裁判が行われた。ビル及び入居者側はガス会社の責任を追及する意図から、被災した第一ビルを解体せず、建物の周囲に厳重なフェンスを設置して立ち入り禁止にする等の安全処理を施したうえで長期間そのままとし、広く一般に公開していた。この事故以降、地下街に関する保安基準(都市ガスの遮断装置、消防設備など)が厳しくなり、地下街の新設も神奈川県川崎市の川崎アゼリア(1986年開業)までしばらく認められなかった。また宮城県仙台市でも一時地下街の開発が計画されていたが、地下街に関する保安基準の厳格化により、計画は中止となった。事故後しばらく閉鎖されていた地下街は防災センターや消防設備を整備のうえ復旧した。その後、地上の商店街が「ゴールデン街」から「ランバーストリート」を経て「紺屋町名店街」と改称としたのに合わせて「紺屋町地下街」と改称、事故現場の第一ビルの跡地も2棟のビルに建て変えられ、事故当時の面影はかなり薄らいでいる。事故の翌年、消防法施行令等が改正され、事故当時第一ビルに設置されていなかった緊急ガス遮断装置やガス漏れ警報装置などの設置が法的に義務化されることとなった。
出典:wikipedia
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