青井(あおい)は、東京都足立区の町名。住居表示実施済み。現行行政地名は青井一丁目から青井六丁目。足立区中部に位置する。南北に貫流する綾瀬川の西岸に接し、北端を東京都道318号環状七号線(環七通り)が東西に通っている。東部を首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスが通り、三丁目に青井駅が置かれている。南部に工場があるが、ほとんどが都営住宅を含む住宅地となっている。東は加平・綾瀬、西は中央本町、南は弘道、北は一ツ家・西加平と接する。住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、青井2-28-14の地点で29万4000円/mとなっている。現在の青井に相当する地域は、江戸時代には全域が武蔵国足立郡淵江(ふちのえ)領に属していたが、所属する村は複雑で、保木間村(二ツ屋新田)・伊藤谷村(兵左衛門切耕地、海道東耕地)・次郎左衛門新田・小右衛門新田・弥五郎新田(精出耕地、丁張耕地)・五兵衛新田・嘉兵衛新田(西新川端耕地、奥耕地、二ツ家耕地、新川耕地)・島根村(海道耕地、精出耕地、丁張耕地)・栗原村(新川耕地、丁張耕地)の各一部であった。このうち、島根村と栗原村に属した地域は、本村から離れた飛び地であった。各村はいずれも天領であったが、島根村のみ天領と安穏寺領から成っていた。『角川日本地名大辞典』によれば、青井に相当する地域のほとんどの耕地は江戸時代に開墾され、見沼代用水や葛西用水を利用していた。青井を流れる見沼代用水は、最末流の八条道添堀であったことと、地形が平坦であったことから給排水に難があり、周辺村と用水をめぐる争いがたびたび発生している。このため、宝暦9年(1759年)には保木間村・次郎左衛門新田・小右衛門新田・嘉兵衛新田・島根村・栗原村の間で浚渫(しゅんせつ)に関する議定が、安永2年(1773年)には下郷3か村(保木間村・次郎左衛門新田・嘉兵衛新田)と上郷4か村(小右衛門新田・島根村・栗原村・六月村)の間で定杭・底樋の改修に関する取り決めが、それぞれ寸単位で結ばれた。二ツ屋新田は全域が現在の青井になっているが、元禄郷帳に保木間村の枝郷として注記されており、36石で、元禄10年(1697年)の検地帳では家数は2軒だった。この新田は織田氏の旧臣であった平田家と若菜家によって開拓されたと伝えられる。次郎左衛門新田には、正月に餅を食べない「餅なし正月」という風習が見られた。明治時代になると東京府の所属となり、大区小区制下では1873年(明治6年)3月に西部(おおむね花畑街道・下妻街道以西)が第十大区五小区、東部(おおむね花畑街道・下妻街道以東)が第十大区六小区となった。1878年(明治11年)には足立郡が南北で分割され、所属郡が南足立郡となった。1889年(明治22年)5月1日に町村制が施行されると、保木間村・伊藤谷村・次郎左衛門新田・弥五郎新田・五兵衛新田は綾瀬村、小右衛門新田・島根村・栗原村は梅島村(1928年〔昭和3年〕に町制を施行し梅島町となる)、嘉兵衛新田は花畑村の大字となった。さらに各町村は1932年(昭和7年)10月1日、東京市に編入され、足立区の所属となった。この際、各大字は以下のような新町名に変更された。※上記の地名変更は現在の青井に相当する部分のみ示した。第二次世界大戦後には、1954年(昭和29年)4月1日に足立区立栗島小学校、1973年(昭和48年)4月1日に足立区立青井小学校と足立区立青井中学校、1976年(昭和51年)12月27日に東京都立青井高等学校が開校した。商業が盛んとなり、1962年(昭和37年)に青井兵和通り商店街振興組合の前身である兵和通り商工会、昭和40年代中頃(1970年前後)に青井六丁目商店会が発足した。1966年(昭和41年)1月1日に住居表示が導入され、現在の青井が成立した。青井の商業環境は、消費者ニーズの多様化や大規模小売店舗立地法の施行などによって厳しくなっており、青井六丁目商店会の加盟店は18軒に減少した。これに対し、青井兵和通り商店振興組合は商店街振興のみならず、まちづくりにも取り組み始めた。2005年(平成17年)8月24日、つくばエクスプレスが開業し、同時に青井駅が開設された。1889年(明治22年)の町村制施行まで、江戸時代からの次郎左衛門新田、弥五郎新田、五兵衛新田ほか12か村の耕地が交錯しており、その境界も複雑に入り組んだものであった。その後の町村制施行による町村合併によっても複雑な境界の様相は残され、戦後に行われた住居表示による新町名の制定において、江戸時代以来の綾瀬村の大字でまとめていくことも難しく議論は紛糾した。最終的にはこの辺りがそれぞれの村の「精出耕地(せいだしこうち)」であったことから、「精」より「青」、「耕」より「井」をとって「青井」と命名される次第となり、1966年(昭和41年)1月1日より新町名が実施された。精出耕地とは、江戸時代の開拓期に最後まで残されたこの地域を各村が努力して耕地として拓いたことから、「精出し」と名付いたようである。また、青井の「青」には澄み渡った青空と豊かな農作物の繁栄を、「井」は尽きることの無い湧水を表し、この地域の今後の発展を願ったものであるという。青井兵和通り商店街(あおいへいわどおりしょうてんがい)は、青井三丁目にある商店街。商店街の統括組織は、1962年(昭和37年)に兵和通り商工会として発足し、1984年(昭和59年)に改称・法人化した青井兵和通り商店街振興組合。2002年(平成14年)度の加盟店数は48店で、住民の高齢化と同時に購買客層の高齢化も進行している。この商店街では1978年(昭和53年)4月から始まった朝市や毎月第二土曜日に産地直送の野菜を販売する「まんぞく市」を開催している。特に朝市は毎月第四日曜日の午前7時から9時まで開かれ、3,000人の来客を集めている。通り沿いに商品や店の人による手作り屋台が並ぶ。商店街は各種の取り組みを行っている。商店街振興組合が結成する「わくわくクラブ」は、空き店舗を子どもの一時預り所や遊び場として活用することで、待機児童対策や子育て支援を行っている。また、スタンプラリーや模擬店を開いて夏休みの思い出作りにも貢献する。交通安全にも取り組んでおり、子ども・母親・高齢者向けの交通安全啓発や歩車分離の推進を行ってきたことが評価され、2006年(平成18年)12月4日に「平成18年度交通安全功労者表彰」を受けた。青井では「ばらのまち」を目指して活動が行われている。この活動は2006年(平成18年)に始まったもので、地元の町会や自治会、青井兵和通り商店街、青井小学校、足立成和信用金庫などが協同して取り組み、地域活性化や地域コミュニティの強化、バラを観賞に来る訪問者や地元住民の目が増えることで治安の向上が期待されている。青井には東京23区で唯一のバラ栽培農家も存在する。活動の中心団体である「バラのまち青井をつくる会」は約30名が加入し、青和ばら公園を主としてバラを植えている。青和ばら公園では約100種類920株のバラが栽培され、春と秋の2回見頃を迎える。バラの見頃に合わせ、「青井バラまつり」も開催されている。公立の小・中学校に通学する場合、学区は次のように指定されている。ただし、足立区では学校選択制度が導入されているため、希望すれば通学する学校を変更することができる。つくばエクスプレスが開通し青井駅が開設されるまでは、最寄り駅の綾瀬駅(東京メトロ・JR東日本)および五反野駅(東武鉄道)まで徒歩25分かかり、「陸の孤島」状態であった。兵和通りはいまだ開発中であり、閉店や開店を繰り返している店舗もある。
出典:wikipedia
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