劉 隠(りゅう いん、乾符元年(874年) - 乾化元年3月3日(911年4月4日))は、十国南漢の実質的な創始者。河南上蔡(現在の河南省上蔡県)の人。正式には皇帝として即位しておらず、唐の節度使、後梁の南海王の地位にあった。賢士・名士を好み、唐や後梁の混乱で逃れてきた多くの人材を登用して、南漢の基礎を作り上げた。874年、劉知謙(劉謙)の嫡出長男として生まれる。もともと劉謙の父である劉安仁は南海の商人であったが、唐の混乱期に乗じて次第に頭角を現し、潮州刺史に任じられた。父の劉謙は黄巣の乱討伐で功績を挙げたことから封州刺史に任じられている。乾寧元年(894年)に父が死去したため、後を継いで封州刺史となる。広州で反乱が起こると、その鎮圧に貢献したことで哀帝から静海軍節度使・広州静海軍節度使に任じられた。そして広東・広西に勢力を拡大して半独立した。唐が滅びて後梁が成立すると、太祖・朱晃に臣従して乾化元年(911年)に南海王に封じられた。しかしその直後に病に倒れて死去した。享年38。男子がいなかったため、後を弟の劉巖が継いだ。917年(乾亨元年とした)に劉巖が皇帝を称すと、襄帝の諡号をもって追尊された。廟号は烈祖。
出典:wikipedia
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