色部 久長(いろべ ひさなが)は、江戸時代後期から末期にかけての米沢藩の家老。受領名が長門守であったことから色部長門の名で知られている。戊辰戦争において奥羽越列藩同盟に列した米沢藩より、旧幕府の直轄領であった越後府で港のある新潟町(現在の新潟市)を警備する為に総督に命じられ、奮戦し功績を残した。幼少より藩校興譲館に学び、助読となる。嘉永6年(1853年)に家督を相続し、安政6年(1859年)に侍頭兼江戸家老となる。元治元年(1864年)に奉行(国家老)となる。慶応元年(1865年)、上杉茂憲に従い京都に上洛。御所南門警護に当たる。慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発し、新政府軍と旧幕府軍で全国各地で衝突が発生した。米沢藩は奥羽越列藩同盟に参加し、薩長を中心とした新政府軍が北陸道を北へ進軍するのと対峙した。米沢藩が同盟軍の補給拠点である新潟港の警備を担当することになると、色部がその総督に命じられた。色部は藩兵600人を引き連れ、現在の新潟県新潟市にある西堀の光林寺に本陣を置いた。新政府軍による海上などからの猛攻を受け、新潟の町は焼け野原になった。色部は新潟の町の戦争被害拡大を懸念して兵の撤退を決定した。米沢藩兵が敗走する中、色部は敗戦の責任を取るべく、僅か数名の兵を引き連れて新政府軍の本拠地であった関屋へ斬り込んだ。奮闘するも敵の攻撃に被弾し助からないと悟り、敵に首級を取られまいと新潟市の中央区関屋下川原新田(現在の新潟県立新潟高等学校周辺)にあった茄子畑にて割腹し、部下に介錯させた。享年44。戦後、藩主・上杉斉憲は長子・茂憲に家督を譲って隠居する。新政府は藩から4万石を召し上げ、一連の戦犯について調査を命じた結果、既に死亡した色部を戦犯として届け出る。これは千坂高雅を助命する為の方便であり、不審を抱く新政府首脳の中には、三条実美のように、「信賞必罰」の立場から改易論を唱える意見もあったものの、茂憲自らが東京に出頭して軍資金3万両を献納するなど運動した結果、斉憲が山内豊範の義父であることも考慮されたか、ようやく改易を免れた。奥羽諸藩では戦犯者が処刑されるなか、米沢藩では色部に責任を転嫁したことによって被処刑者はなかった。戦後、色部家は家名断絶となったため、子・康長は山浦氏名跡を相続する。明治16年(1883年)には色部家再興が許されたため、康長は長女に山浦氏を相続させ、自らが色部家を再興した。色部の的確な判断により新潟の戦火の拡大が抑えられ、今ここに新潟の地があるのは色部長門のお陰である事を称え、色部の絶命した地に、1932年(昭和7年)8月30日に関屋戊辰戦蹟保存会の会長斉藤巳三郎を発起人として、諸氏の連名によって色部の功績と慰霊をこめて色部長門君追念碑が建立され、その地を戊辰公園とした。後に米沢市でも、戦犯として米沢藩の責任一身に背負って汚名を被った事で米沢藩を守った功績を称え1963年(昭和38年)に色部長門追念碑が建立された。
出典:wikipedia
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