加藤 秀司(かとう ひでじ、1948年5月24日 - )は、静岡県榛原郡川崎町(現:牧之原市)出身の元プロ野球選手(内野手)、野球解説者、指導者。日本プロ野球名球会会員。通算犠牲フライで歴代2位の記録数を持つ。(野村克也に次ぐ105個)PL学園高校では、2年生の時に控え一塁手としての第37回選抜高等学校野球大会に出場するが、準々決勝で高松商の小坂敏彦投手に抑えられ敗退。1年上のチームメートに福嶋久晃、得津高宏、長井繁夫がいた。翌の第38回選抜高等学校野球大会にも四番打者、一塁手として連続出場するが、1回戦で、この大会に優勝した中京商に敗れた。高校同期にエースの加藤英治、内野手の野口善男がいる。1966年のプロ野球ドラフト会議で東映フライヤーズから4位指名を受けるが入団を拒否し、社会人野球の松下電器に進む。の第38回都市対抗野球大会に出場。1967年のドラフト会議では南海ホークスから10位指名を受けるが再び入団を拒否。の第39回都市対抗野球大会では、同僚の福本豊、岡田光雄とともに富士製鐵広畑の補強選手として出場し、4番打者として活躍。チーム初優勝の原動力となった。1968年のドラフト会議で阪急ブレーブスから2位指名を受け入団。この時の1位指名に山田久志、7位指名に福本豊と、後の名球会会員となる3人を獲得することとなった。プロ入り当時はまだチーム全員による合同自主トレの習慣があった頃だが、初日から阪急の選手達の練習量に圧倒され、「これについて行こうと思ったら体をゆわせて(=関西弁で「故障する、壊す」の意)しまう。あわてても仕方ない。1年じっくりやろう」と思うようになった。また、守備も苦手で、松下電器時代の監督・仁木安が「阪急は加藤にどこを守らせるつもりだ?」と不思議がったという逸話がある。本格的なデビューは福本、山田に比べて出遅れたが、2年目の終盤から少しずつ出場機会が増え始め、シーズン終了後の秋季キャンプで監督の西本幸雄に「来年からはスタメンで使うぞ」と打ち込みを課せられたことから「これからは徐々にやっていかないかんのかな」と意識するようになった。3年目の、一塁手のレギュラーに定着。ヒザを深く曲げ、折り畳むように構える独特の打法で勝負強い打撃を買われ、は打率.337で首位打者を獲得。は32本塁打、97打点(打点王)で、パ・リーグMVPに選出される。この頃は3番加藤秀、4番長池徳士の打順が定番で、長池は「加藤はすごくチャンスに強くて、あいつがみんな走者を返してしまうので、そこで打つなよと言いたくなる時もあったよ」、「他の選手は普通にやってりゃ勝てると思ったけど、加藤だけは『負けたくない』と思わせる奴だった」とライバル意識を見せた一方で、「1番福本、2番大熊(忠義)、3番加藤、前にこれだけ揃っていると4番も楽。加藤のおかげで打点王取らせてもらった年もあった」と振り返っている。一方、加藤は長池について「僕がホームラン25本くらいってときに長池さんは40本以上打っていた。10本差くらいまでならともかく、ここまで差がついちゃうともう勝負はできない。僕は芯に当てる自信はあったので、長池さんがホームランなら僕はヒットで勝負しようと思った。それがある意味ライバル意識だったかもしれない」と語っている。長池同様、加藤も「恵まれた3番だった。福さんが塁に出て盗塁、大熊さんが進めて1アウト三塁って多かったので、重圧もあったけど結構楽しかった。」と優秀な1、2番コンビの存在に敬意を表している。実際、犠牲フライのリーグトップが6回(うち阪急時代に5回記録)もあり、加藤は歴代2位の105本の犠牲フライを記録している(1位は野村克也の113本だが、加藤の通算打席数は野村よりも4,000打席近く少ない)。長池が衰えてからは4番を打つことも多くなったが、「だからと言ってバッティングを変えたことはない」と語っている。には2年連続の打点王。守備の方でもまでダイヤモンドグラブ賞を3年連続で受賞した。に登録名を加藤 英司に変更。同年は腰痛に苦しみながらPL学園高の後輩・新井宏昌(ホークス)との首位打者争いを制し、打率.364で2度目の首位打者、104打点で2度目の打点王の二冠を獲得。本塁打王も近鉄のチャーリー・マニエルと激しく争ったが、33本で並んでいた時に目の前で今井雄太郎がマニエルにまともに34号を打たれ、「消化試合なのに何やってんだ」とガックリきたという。結局自己最多の35本塁打を記録したものの、37本塁打のマニエルに及ばず、三冠王は逃した。長く阪急の中心打者として活躍するも、に打率.235の成績に終わると、監督の上田利治による若手切り替え方針に則り、水谷実雄との交換トレードにより広島東洋カープに移籍した。広島では肝炎のため成績を残すことが出来ず、ドラフトで同じ一塁手でPL学園高の後輩でもある法政大の小早川毅彦の2位指名もあり、のシーズン終了後、福井保夫・森脇浩司との交換で大原徹也と共に近鉄バファローズに移籍。には指名打者として打率.286・26本塁打の成績を残した。に読売ジャイアンツに金銭トレードにて移籍。5月10日の対広島戦で「全球団から本塁打」という記録を達成するものの、中畑清から一塁手の定位置を奪えずに代打での出場が目立ち、2,000本安打まで残り13安打にこぎ着けたものの、同年オフに自由契約となる。、阪急時代の監督であった西本が立教大学硬式野球部の後輩で当時ホークス監督の杉浦忠に仲介し、ホークスへ移籍。西暦と同数の1987安打で開幕という点も注目されつつ、5月7日の対阪急戦でかつての同僚・山田から本塁打を放ち、2,000本安打を達成。同年限りで現役引退。プロ入りから長く在籍した阪急、その後の移籍先の近鉄、引退直前の南海という、当時の関西パ・リーグ3球団に現役選手として在籍した数少ない選手である(他には山崎慎太郎、加藤伸一など年代は違ううえに阪急・南海は身売りした(とくにホークスはダイエーが親会社となって福岡に移転した)後ではあるが在籍し、山崎、加藤伸とも広島にも在籍した共通点もある。山崎は近鉄・ホークス・阪急の後身のオリックス。加藤伸はホークス・オリックス・近鉄に在籍)。移籍を繰り返した現役後半時代は、関西(阪急)→広島→関西(近鉄)→東京(巨人)→関西(ホークス)と関西を離れてはまた関西に戻ってくる、の連続だったために「渡り鳥生活」と呼ばれた。からまでフジテレビ・関西テレビ・ラジオ大阪解説者として活躍し、三菱ギャラントーナメントのリポーターも務めたことがある。からまで日本ハムファイターズ一軍打撃コーチを務め、小笠原道大を育てた。から途中までKBS京都テレビ解説者。2003年は阪急の後継球団であるオリックス・ブルーウェーブの春季キャンプ臨時打撃コーチを務め、シーズン途中から同球団二軍のサーパス神戸監督へ就任(古巣復帰は1982年以来21年ぶり)し、まで務め、坂口智隆や嶋村一輝ら若手を指導した。よりJ SPORTS、よりサンテレビ、2013年よりFOX SPORTSのそれぞれの解説者を務める(この頃より、活動名義も本名に戻している)。その傍ら、からまで履正社医療スポーツ専門学校内で組織された社会人チーム・履正社学園硬式野球部のコーチを務めていた。からまで3年間は社会人野球・大阪ガスの臨時打撃コーチを務め、2015年11月13日に中日ドラゴンズの一軍チーフ打撃兼野手総合コーチに就任。教え子の嶋村が一軍打撃コーチ、小笠原が二軍監督に就任している。GMの落合博満の要請でコーチ就任となったが、監督の谷繁元信とは指導方法を巡って対立、加藤は試合中に寝ていたり、練習に遅刻することもあったという。 愛称はコメディアン・加藤茶にちなんで「チャ」または「カトちゃん」。
出典:wikipedia
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