長野工業専門学校 (ながのこうぎょうせんもんがっこう) は、1943年 (昭和18年) に設立された官立の旧制専門学校。創立時の名称は 「長野高等工業学校」 (長野高工)。日中戦争下の1939年、官立高等工業学校の増設計画が明らかになると、各地で激しい誘致運動が起こった。長野県下では長野市が最初に運動を開始し、次いで松本市、岡谷市も名乗りを上げ、三つ巴の争いとなった。しかし同年3月31日、設置地は 7箇所 (室蘭、盛岡、多賀、大阪、新居浜、宇部、久留米) と決定し、長野県は敗退した。しかし、長野県下への官立高工設置を望む声は根強く、1940年12月に長野県議会が高工設置意見書を可決、次いで1941年5月には長野電気株式会社 (電力会社。戦時の電力国家管理により事業終了) が 100万円の寄附を申し出た。長野県も現物寄附として、長野市若里にあった長野県工業試験場などを寄附する方針を固め、1942年6月に高工設置要望書・設備計画書を文部省に提出した。これにより、長野市への官立高工設置が決定された。創立当初は、長野県長野工業学校 (現・長野県長野工業高等学校) の校舎に間借りした。1944年4月、長野県工業試験場 (長野市若里500番地) の土地・建物が国に移管され、長野工専校舎となった (工業試験場は若里188番地に移転した。現・長野県工業技術総合センター)。同校地は後身の信州大学工学部に継承され、現在に至っている。
出典:wikipedia
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