皆川 睦雄(みながわ むつお、1935年7月3日 - 2005年2月6日)は、山形県南置賜郡山上村(現在の米沢市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。1969年までは皆川 睦男。現役選手としては、野村克也とともに南海ホークスの同期入団で同球団黄金期の主力選手であった。引退後は阪神タイガース、読売ジャイアンツ、近鉄バファローズのコーチを歴任した。2015年現在、日本プロ野球界「最後の30勝投手」である。。山形県南置賜郡山上村で7人兄弟の末子として誕生。父を早くに亡くし、兄が経営していた運送業の手伝いをしながら山上村立山上中学校(現在の米沢市立第五中学校)に入学して野球部に入り、米沢市の大会などで活躍を見せる。米沢西高では民法学者としてその名を知られた遠藤浩が野球部の監督を務めており、遠藤の指導で力をつける。高校1年次の、夏の甲子園東北大会では右手小指を骨折しながら1回戦の福島県立内郷高等学校戦で完封勝利を記録するが、骨折の影響で準決勝の福島県立安積高等学校戦では指の痛みが限界に来て大量失点を喫して敗れた。3年時の、夏の甲子園東北大会を勝ち上がり決勝に進むが、宮城県白石高等学校のエース大沼清と投げ合い敗退、甲子園出場はならなかった。だがこの試合の二塁塁審を務めていた岩本信一が皆川の素質を買い、南海の選手兼任監督だった山本一人(後の鶴岡一人)に皆川獲得を薦めたという。当初、進学希望ということで、南海は手を引いた形になっていたが、その後、皆川が先輩に伴われて「南海にお世話になります」といってきて、南海入団に至った。立教大学に進学を志望していたが、母子家庭で家計も苦しく断念したという。進学を断念した立教には後に「立教三羽ガラス」と呼ばれた杉浦忠、長嶋茂雄、本屋敷錦吾が入学している。に南海へ入団。同期入団には、野村克也、宅和本司がいる。最初の2年間は白星に恵まれず、自由契約も覚悟したが、山本(鶴岡)の「皆川はプロで生きて行こうと努力しているし、まじめにやっている。来シーズン辺りは活躍するはずだ。ワシが保障するから給料は倍にしてやれ」の一言で解雇どころか給料倍額を言い渡され奮起する。3年目のに11勝を挙げるが、同時に肩を痛め、コーチの柚木進に勧められるかたちでオーバースローからアンダースロー(サイドスローと言われることもある)に転向した。このフォーム改造が功を奏し、に18勝、に17勝。にはチームトップの19勝を挙げるなど、8年連続2桁勝利を挙げ、安定した成績を残すようになる。10月6日の対東映戦でシーズン30勝と通算200勝を同時に達成。アンダースロー投手の200勝は皆川が初めてであった。また、シーズン30勝は1964年の小山正明(30勝)以来4年ぶりの快挙だった。以後シーズン30勝を達成した投手は誕生していない。最終的に31勝まで伸ばし、防御率も1.61で最多勝利と最優秀防御率を獲得。皆川自身、2桁勝利は12度マークしているが、20勝を挙げたのはこのシーズンだけである。翌も期待されたが、公式戦まであと1週間に迫った巨人とのオープン戦でバントを失敗し、投球を右人差指に当て骨折するという事故を起こし、再起まで3ヶ月という診断で、結局この年は5勝に留まった。皆川故障の影響は大きく、同年、南海は戦後初の最下位に転落している。限りで現役引退した。通算成績は759試合の登板で、221勝139敗、防御率2.42。2016年現在、221勝はホークス(南海、ダイエー、ソフトバンク)の球団記録である。またアンダースロー投手としては1983年に山田久志に抜かれるまで最多勝記録でもあった。なお、南海の大エースとして名高い杉浦よりも通算勝利数は上回っており、200勝がラインとなる日本プロ野球名球会にも入会している。からまでは阪神の一軍投手コーチを務め、山本和行をリリーフエースに、池内豊を中継ぎエースに育てた。からまでは巨人の一軍投手コーチを務め、のリーグ優勝に貢献。水野雄仁、桑田真澄、斎藤雅樹を指導した。特に桑田は「僕が入団した翌年、打たれても、皆川さんの大丈夫、大丈夫、に随分励まされた」と語っている。からは近鉄の一軍投手コーチとして、佐野重樹、高村祐を育てた。1998年には1年だけ台湾プロ野球の三商タイガースで投手コーチを務めた。朝日放送の野球解説者を長年にわたり務め野球評論家の傍ら、少年野球の指導にも力を入れていた。2005年2月6日、敗血症のため死去。。葬儀では南海時代の先輩岡本伊三美が弔辞を読み、野村克也、吉田義男、金田正一、王貞治、母校の高校のOBらが参列した。出身地の米沢市と山形県では、生前のプロ野球選手としての輝かしい成績と、現役引退後も野球にとどまらず郷里山形の発展に尽力した功績を称え、2005年11月3日には米沢市市民栄誉賞を、2006年3月15日には山形県県民栄誉賞をそれぞれ贈呈した。また同年夏には米沢市営野球場(上杉スタジアム)の愛称が「皆川球場」に改称された。1月14日、2011年度野球体育博物館(野球殿堂)競技者表彰(エキスパート部門)に、落合博満(プレーヤー部門)と共に選出された。宅和本司、杉浦忠、ジョー・スタンカら、派手な活躍をしたエースの陰に隠れながら、アンダースローからのシュート・シンカーと制球力を武器に長く2番手投手として南海投手陣を支えた。皆川の球質は、打者の手元で浮き上がる杉浦とは異なり、ストレートそのものが沈み気味であるうえ、シンカーはさらに大きく落ちるという特徴があった。毎年、安定して2桁勝利を挙げ続けてきたが、張本勲や榎本喜八といった左の強打者への攻めに限界があった。このため、投球の幅を広げるべく、野村克也と小さく鋭く曲がるスライダーの開発・習得に取り組み、1968年シーズン前に完成させた。この球種は、打者の手元で芯を外すためにあえて変化を小さくしたものであり、習得を進言した野村曰く「世界初のカットボール」である。オープン戦最後の巨人戦で王貞治相手に試し、どん詰まりのセカンドフライに仕留め、その効果を確認したという。皆川は王を打ち取ったときにマウンド上で満面の笑みを見せ、野村はそのときの嬉しそうな顔を忘れられないと語っている。同い年、同チームで、同じくアンダースロー(に当時は分類されることが多かった)杉浦忠とは、「本格派」と「技巧派」、「太く短く」と「細く長く」など、対比されることが多い。野村は、杉浦を「華やかな表看板」、皆川を「地味な縁の下の立役者」と表現している。皆川自身は「杉浦の陰で咲く花」と評されても反論せず「スギ(杉浦)はスギ。僕は僕」と笑顔で黙止したという。1969年秋のドラフト1位の佐藤道郎が入団したころ、チームには“太く短く”をモットーとする「杉浦派」と“細く長く”の「皆川派」という言葉があったという。野村克也とは同い年の同期入団であり、15年以上に渡ってバッテリーを組んだ。皆川自身は「221勝のほとんどが野村に助けられたもの」と言っているが、豊田泰光は「好リードでその力を引き出したのは野村だったが、野村もまた抜群の制球力を利用した研究によって、随一の配球理論を構築したという面があるだろう」と述べている。遊撃手時代、守備に苦手意識を持っていた広瀬叔功は自著で、「私にとって、皆川氏は、実は大の苦手だった。皆川投手の落ちる球で、相手打者はゴロばかり。ショート守備の下手クソさが目立って仕方がない。逆に言えば、相手を三振に仕留めてくれるスギやん(杉浦)のありがたさをよく分からせてくれたのがこの皆川氏だった」と述懐している。東北人らしい、物静かでまじめ、粘り強い性格だった。皆川の人となりを表すエピソードとして以下の話がよく知られる。アンダースローに転向した1956年、西鉄ライオンズとの試合で8番打者・和田博実を3ボール0ストライクにした際、皆川は「どうせ打ってこないだろう」と真ん中に軽いストレートを放ったが、主審の二出川延明に「ボール」と判定される。捕手である野村は当然のこと、皆川も「ど真ん中なのになぜボールなのか」と猛抗議したところ、二出川に「気持ちが入っていないからボールだ!」と一喝された。この無茶なジャッジに野村は憤慨したものの、当の皆川は逆に感銘を受け、以後の投球で一球たりとも手を抜かないようになり、色紙にも「一球入魂」と書くようになったという。まじめ、摂生ぶりを示すエピソードとして次のような話がある。薬師寺管長の高田好胤の知遇を得、高田の講演会では皆川も行動を共にする機会が多かった。皆川の長男の結婚式には高田が駆けつけて祝辞を述べたという。豊田泰光とは妙にウマが合い、食事をよく共にしたという。豊田は、「山形出身の皆川は東北人=無口という昔のイメージ通りの人間で、酒も飲まない。弾んだ会話というものもなかったが、それがよかった。とにかく一緒にいるだけでほっとした」「万事控えめな男と私(豊田)の組み合わせを、周囲は不思議がったものだ」と語っている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。