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山岳ベース事件

山岳ベース事件(さんがくベースじけん)とは、1971年から1972年にかけて連合赤軍が起こした同志に対するリンチ殺人事件。当時の社会に強い衝撃を与え、同じく連合赤軍が起こしたあさま山荘事件とともに新左翼運動が退潮する契機となった。1960年代以前の日本では学生や労働者による政治運動や政治活動が盛んであった。そんな中、学生を中心とした新左翼諸派は、1967年頃より急速にその活動を先鋭化させていった。新左翼の過激な闘争は当初社会の注目を浴びたが、一般市民は次第に彼らの運動に賛同しなくなっていく一方で、警察は新左翼に対してより強硬な姿勢で臨むようになり、そうした時流や風潮に納得できない一部の若者たちは、より過激な活動を行うようになった。その中でも最過激派の代表格が、1969年9月に公然と登場した共産主義者同盟赤軍派、及びほぼ同時期に過激な闘争を開始した日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(京浜安保共闘)で、同年10月の国際反戦デー闘争や同11月の佐藤首相訪米阻止闘争で新左翼主流武闘派や全共闘が壊滅し政治運動が穏健化する中、彼らはハイジャックやダイナマイト闘争などを行い、その活動をより先鋭化させていった。1971年に入ると、革命左派は銃砲店を襲撃し銃で武装するようになり、赤軍派は金融機関襲撃による資金獲得を行うようになる。彼らに対する警察の取り締まりは一段と厳しくなり、また革命左派や赤軍派も警察に対して「殲滅戦」(殺害)を企てるようになっていった。一方、この頃から中核派等の新左翼主流派勢力やノンセクト・ラジカルも過激な闘争を復活・先鋭化させるようになり、交番爆破や東峰十字路事件のような機動隊員の殺害事件も起こるようになった。1971年に入って共闘関係を結ぶようになっていた赤軍派と革命左派は、やがて「連合赤軍」の結成を宣言したが実態は無く、その一方で両派とも警察の厳しい追及によって活動に行き詰まっており、「殲滅戦」においても他党派に遅れをとるようになっていた。両派は事態を打開するため共同の軍事訓練を行い、指導部会議を重ねていたが、その最中、「総括」と称するリンチで短期間に30名弱のメンバー中12名を殺害し、自ら組織を弱体化させたのが「山岳ベース事件」である。その後、その残党である5名が長野県軽井沢町の別荘「あさま山荘」に立てこもり、警察と銃撃戦を繰り広げ、警官2名と民間人1名を射殺する「あさま山荘事件」を起こすことになる。なお、1971年8月には革命左派において山岳ベースを脱走したメンバー2名を「処刑」する印旛沼事件が起こっており、同志殺害という一線は既に越えられていた。当時、この事件は両派幹部内での秘密であったが、革命左派の被指導部メンバーには「処刑」に感づいていた者がいたとされている。連合赤軍の母体の一つである革命左派は、テロを行ったメンバーの多くが指名手配されたりしたために都市部で自由な行動ができなくなっていた。そこで、警察の目の届かない山岳地帯に軍事訓練や今後のテロ作戦のための拠点となる「山岳ベース」と呼ばれるアジトを築いた(山岳ベースは、脱走者の発生、他人に目撃される等の事情で、各地を転々とした。名称は「榛名ベース」のように「地名+ベース」で呼ばれた)。連合赤軍のもう一つの母体である赤軍派も、都内アジトを拠点としつつ山岳ベースの設置を目指すようになった。1971年7月に名目上結成された連合赤軍は、同年12月初頭に赤軍派の新倉ベース(山梨県)で初の合同軍事教練を行った。一方でこの頃から革命左派の非合法部(山岳ベースメンバー)と合法部の意見の相違が目立ちはじめ、12月18日の柴野春彦一周忌への対応を巡り対立は決定的となった。12月20日頃から革命左派の榛名ベース(群馬県)で両派の指導部会議が始まると、合法部との決別と両派による「新党」の結成が宣言され、両派のメンバーが山岳ベースに集合することとなった。山岳ベースに集まったメンバーはのべ29人(内、女性は10人)であった。榛名ベースでの「新党」においては、「総括」と称する内部でのメンバーに対する批判や自己批判がエスカレートするようになった。総括対象者は最初は作業から外されるだけだったが、間もなく長時間の正座、更には殴打、ついには死者を出すようになった。総括による犠牲者の多くは榛名ベースで出たが、その後脱走したメンバーが出たため移動した迦葉ベースでも複数の犠牲者が出た。メンバーのさらなる脱走で迦葉ベースを放棄して移った妙義ベースで最後の犠牲者が出た。「総括」の対象者は連合赤軍リーダーの森恒夫が決定した。総括とは、本来は過去を振り返る「反省」を意味した。当時の左翼の政治運動家の間で好んで使われた思考法である。しかし、連合赤軍では次第に総括が儀式化し、実態は私刑と化していった。連合赤軍のリーダーであった森は「殴ることこそ指導」と考えていた。殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという論理を展開し、仲間にも強いた。総括はあくまでも「援助」であり、「お前のためなんだぞ」と言いながら殴った。メンバーの一人は「俺のことを小ブル主義者と呼んだだろ」と口走ったことで、個人的な怨みで総括を行っているとして、総括要求された。散々殴られたうえにロープで吊るされ、さらに激しい暴行を加えられ、1971年12月31日に死亡した。メンバーは総括で予期せぬ死者を出したことに一時は動揺したが、森はこれを「総括できなかったための敗北死」とし、総括を継続した。「総括」は建前は相手を「革命戦士として自ら更生させる」ことを目的としており、周囲のものが暴力をふるうことは「総括援助」と称して正当化された。後に、暴力はそれをふるう側にとっても「総括」であるとされ、自身の「総括」のためにもより一層の暴力をふるうことが要求されるようになった。リンチは非常に凄惨で、激しい殴打を伴った。被害者らの死因は殴打による内臓破裂や、氷点下の屋外にさらされたための凍死であった。「総括」にかけられたメンバーのほとんどはされるがままに暴力を浴び続け、中には自ら殴られることを願い出たり暴力に対して感謝の言葉を述べる者もいた。一方で、自身に暴力がふるわれていることに対して抗議めいた態度を示した者も若干いた。一部のメンバーは総括の見込み無しとして「死刑」を宣告された。「死刑」の際、参加しなかったメンバーも同様に「死刑」にされた。この「死刑」は相手を殺害することを目的としたもので、アイスピックやナイフで刺された後に絞殺された。1971年12月末からの約2ヶ月半の間に死亡したメンバーは12人にも上った。死亡者の中にはメンバー同士で恋仲だったり、兄弟であったりした者もいた。中には妊娠していた女性メンバーもいた。証拠隠滅のため遺体はすべて全裸で土中に埋められ、榛名ベースは退却時に放火された。メンバーの多くはこれらの虐殺を嫌がったが、「革命」のためには我慢しなければならないという意識で虐殺にかかわり続けたことが、関係者による回想からうかがわれる。1972年2月16日に、下山していたメンバー2人が発見され、逮捕される。森と永田は一度下山した後、活動資金を持ってキャンプに戻る途中で山狩り中の警官隊に発見され、2月17日に逮捕される。包囲網を突破した残党もやがて発見され、追跡劇の末にあさま山荘事件を起こして抵抗をするも2月28日に逮捕される。その後、山岳ベースから逃亡していた4人のメンバーが出頭した。同じ頃、警官隊の山狩りの結果、山岳ベースの一つ、迦葉山ベースが発見される。焼けてしまった榛名ベースと違い、大量の証拠品が残されていた。迦葉山ベースで警察は、屎尿にまみれ、さらに切断された衣服を発見、証拠品として押収した。人間は、窒息などの死亡時、屎尿を垂れ流す。さらに、死後硬直した死体から衣服を脱がすにはナイフなどで切断するしかない。つまり、この衣服がここで「殺人」が起こった証拠品となった。そして3月、逮捕された連合赤軍メンバーの供述をきっかけに、事件の全貌が明らかになった。僅か2ヶ月足らずの間に同じグループ内で12人も殺害した凄惨極まりない事件は、社会に大きな衝撃を与えた。あさま山荘事件終結後も、日本社会党の議員や左派系マスメディアの中には、連合赤軍を擁護する主張・言動を続けていた者が少なからず見られた。しかし、あさま山荘事件とその直後に発覚した山岳ベース事件の真相と連合赤軍の実態が明らかにされるにつれて、連合赤軍を擁護した者たちの面目と社会的信用は丸つぶれとなった。かくて、左派として行動・主張してきた者たちもことごとく一斉に手の平を返し、赤軍を批判する側へと回っていった。日本国内では、これまで新左翼運動を否定的に見ていた人間はもちろん、新左翼運動を好意的に見ていた人間も、この事件によって新左翼(極左)を嫌悪するようになっていった。それまで世論の一部に存在していた連合赤軍に同調する動きもまた、一気に冷却・縮小していった。左翼党派の反応については、以下の通り。残った連合赤軍メンバー17人は全員逮捕された。裁判で永田洋子と坂口弘は死刑、吉野雅邦は無期懲役が確定した。連合赤軍事件によって世論の新左翼に対する好意的な見方は一気に縮小したが、その後新左翼主流派は血で血を洗う内ゲバにのめり込んでいった。内ゲバの凄惨さは、質においても量においても連合赤軍事件をはるかに上回るまでになり、学生運動・新左翼運動は殺人と同義と見なされ世間から更に見放されるようになった。一連の連合赤軍事件後、山岳ベース事件でのリンチ殺人については、が何の正当性もない犯罪行為と捉えているものと思われる。連合赤軍事件の他にも多くの政治的過激派組織による殺人事件は発生しているが、であり、当事者による事件の詳細な経緯の発表も当然行われておらず、事件の実態は闇の中となっている場合が多い。そのような中にあって、山岳ベース事件は事件を批判的に捉え返した詳細な記録が複数の当事者により発表されており、事件の実像に迫りやすいという点でも特異な事件である。山岳ベース事件における大量虐殺の原因については、様々な意見がある。1979年の石丸俊彦裁判長による判決文では、大量虐殺は「絶対的な権威と権力と地位を確保した森と永田が、その権威と権力と地位を維持確保せんとする権勢欲から、部下に対する不信感、猜疑心、嫉妬心、敵愾心により」行われたとされた。1982年の中野武男裁判長による判決文ではこれに加え、更に永田について「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」が加わった、とした。連合赤軍最高幹部の森恒夫は、一切の責任は自身と永田にあるとした。但し後に、革命左派(川島豪ら獄中指導部を含む)に事件の原因を求めることもしている。遺書では、革命左派の誤りを自身が純化させてしまった(革命左派内では適切な党運営により誤りが純化されることは無かった)のが原因だとしている。連合赤軍幹部の永田洋子・坂口弘・坂東國男は、いずれも事件を主導したのは森だとしている。但し、森は権力欲から総括を行ったのではなく、自身の作った総括の理論にのめり込み、そこから抜け出せなくなったのだとしている。坂口は「極論すれば、山岳ベース事件は、森恒夫君の観念世界の中で起きた出来事なのであった。」と述べている。永田・坂口・坂東は、いずれもそれぞれの立場から石丸判決・中野判決を批判している。事件の原因については、永田の他のメンバー(特に女性メンバー)に対する嫉妬が原因だとされることもある。連合赤軍被指導部の植垣康博は、当初そのような分析を行っていたが、永田にそうではないと指摘され取り下げている。赤軍派と革命左派が両派の路線の違い(赤軍派は広義のトロツキズム、革命左派は毛沢東思想)を無視して野合したことに事件の原因を求める意見もある(植垣『兵士たちの連合赤軍』など)。これに対して坂東は、両派の路線は内実をなしていなかったとしている。加藤倫教は自著で「あのとき、誰かが声をあげさえすれば、あれほど多くのメンバーが死ぬことはなかった」「しかし、私にはそれができなかった。それよりも「革命」という目標を優先し、それに執着してしまったのだ」と述べている。2月上旬に脱走したメンバーは「主観的な行動とうすうす感じつつも武装闘争に殉じたいと思い、それを達成させるための「粛清」を違和感を感じつつも受け入れてしまった(注:原文ママ)」「仲間を殺すことに耐えられなくなった時、私は脱落した」と述べている。※総括事由(植垣)……森恒夫の行った批判の植垣康博によるまとめ。(永田洋子『続 十六の墓標』より)

出典:wikipedia

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