LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

大相撲

大相撲(おおずもう)は、日本相撲協会が主催する大相撲(おおずもう)は、日本国内外における相撲興行のなかで最も有名な競技興行である。東京での開催場所は国技館である(詳しくは国技館、国技#日本の国技を参照)。現在の日本相撲協会の前身として、人的・組織的につながる相撲興行組織は、江戸時代の江戸および大坂における相撲の組織である。大坂の相撲組織に関しては、大坂相撲の項目を参照のこと。ここでは、江戸時代以来の江戸相撲の歴史について記述する。興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)とされる。これは寺社が建立や移築のための資金を集める興行として行うものであり、これを「勧進相撲」といった。1624年、四谷塩町長禅寺(笹寺)において明石志賀之助が行ったのが最初である。しかし勝敗をめぐり喧嘩が絶えず、浪人集団との結びつきが強いという理由から、1648年から幕府によってたびたび禁止令が出されていた。ところが、1657年の明暦の大火により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が生業が立たず争い事が収まらなかったため、1684年、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社(富岡や本所江島杉山神社、蔵前八幡、芝神明社など)で不定期に興行していたが、1744年から季節毎に年4度行われるようになった。この頃には勧進の意味は薄れて相撲渡世が濃くなり、1733年から花火大会が催されるなど江戸の盛り場として賑わいを見せていた両国橋左岸の本所回向院で1768年に最初の大規模な興行が行われた。ここでの開催が定着したのは1833年のことである。『相撲傳書』によると、この頃は土俵はなく「人方屋」という見物人が直径7 - 9m(4 - 5間)の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。17世紀半ばには格闘技のリングのように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に1670年頃に土俵の四隅に四神を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m(13尺)の丸い土俵が設けられた。18世紀始めに俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」とも言う)となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから「36俵」と呼ばれた。江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。しかし江戸相撲は、1789年11月、司家の吉田追風から二代目・谷風梶之助、小野川喜三郎への横綱免許を実現。さらに征夷大将軍徳川家斉観戦の1791年上覧相撲を成功させる。雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。1827年、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の吉田司家に認めた。幕末に「相撲VSレスリング」や「相撲VSボクシング」の異種試合が行われた事がある。また、アメリカ合衆国海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で来航した1853年6月11日)に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。1863年6月3日、大阪北新地で壬生浪士組(後の新選組)と死傷事件を起こした。大坂相撲の力士で死亡したのは中頭の熊川熊次郎(肥後出身)であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の志士となった者もいた。明治維新と文明開化に伴い、1871年東京府のいわゆる「裸体禁止令」により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑に処された。また、「相撲禁止論」が浮上した事もある。このような事態に対し、自らも相撲をとることの多かった明治天皇 および その意を受けた伊藤博文らの尽力により、1884年に天覧相撲が実現され、大相撲が社会的に公認されることにより危機を乗り越えることができた。この天覧相撲の力士は58連勝(史上3位)を記録した15代横綱初代・梅ヶ谷藤太郎であった。東京相撲協会と大阪相撲協会ができ、組織としての形態が確立した。1890年に入幕から39連勝で大関に駆け上がった初代・小錦八十吉と横綱免許を受けた大関初代・西ノ海嘉治郎のねじれ現象の解決のため、番付に初めて〈横綱〉の表記が登場する。これはなかば偶然の産物ではあったが、これをきっかけに横綱・大関が実質的な地位として確立していくようになる。この頃から映像が映され出し、小錦や大砲が映された貴重な映像(1900年撮影)が現存している。20世紀の変わり目の頃には、横綱常陸山谷右エ門1896年に名古屋相撲から大阪相撲へ、後広島相撲から東京相撲へ)と二代目・梅ヶ谷藤太郎の「梅常陸時代」による東京相撲の隆盛が生じ、東京が相撲の中心という意識が広がっていく。1907年、常陸山が渡米した。この渡米は日本国外に相撲を本格的に紹介する最初の出来事であった。1909年6月2日、初の常設相撲場となる両国国技館の落成。これに並行して投げ祝儀の禁止、力士の羽織袴での場所入り、行司の烏帽子直垂着用、幟・積樽の廃止、東西対抗制導入などの制度や規則が導入されて相撲の近代スポーツ化がすすめられ、相撲が国技とされるようになった。土俵入りは、東の横綱、常陸山と西の横綱、梅ヶ谷により行われた。この時、東西制(後述)と呼ばれる団体優勝制度が生まれ、優勝旗が授与された。時事新報社(現在は毎日新聞社)の優勝額贈呈により、現在の優勝制度が始まる。この時から、今までは幕内力士の出場がなかった千秋楽にも、幕内全力士が出場するようになり、名実共に10日間興行の体裁が整った。興行日数は、1923年5月から11日間に増加した。1910年5月の夏場所に行司の衣装がそれまでの裃、袴から烏帽子、直垂となった。1917年11月29日に両国国技館が火災で焼失し、一時期靖国神社境内で本場所が行われたこともあった。興行としての相撲が定着することで、力士の待遇の近代化への要求があらわれ、いくつかの紛擾事件が起きるようになった。東京相撲では、1923年に三河島事件と呼ばれる力士待遇の改善を求めるストライキが発生し、その処理を巡って横綱大錦卯一郎が廃業する事件が起こる。大阪相撲においても同年龍神事件と呼ばれる紛擾が発生し、力士他多くの関係者が廃業し、大阪相撲の実力が低下する。1923年9月1日の関東大震災により両国国技館も屋根柱などを残して焼失。1924年1月春場所は、両国国技館再建中のために名古屋で開催された。それを不満に思った一部の力士は、本場所に出場しなかった。1925年、皇太子(裕仁親王・後の昭和天皇)の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の天皇賜杯が作られる。これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれる。また、1926年1月場所から、今までは優勝掲額のみであった個人優勝者に賜杯が授与されることになり、個人優勝制度が確立する。1927年、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月(両国)、3月(関西)、5月(両国)、10月(関西)の計4回:11日間で開催(1929年は10月でなく9月)されるようになる。ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤も伴いながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われなかった。この時期、勝負に関する様々な改定が行われた。1928年からラジオ中継が始まったために、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられた。個人優勝制度確立の中で、不戦勝・不戦敗制度の全面施行、物言いのついた相撲での預かりの廃止と取り直し制度の導入、二番後取り直しによる引き分けの縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。1931年4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円を無くし径4.55m(15尺)の一重土俵にした。またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた勝負検査役を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人とした。1932年1月に起こった春秋園事件で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催(1月、5月)となった。69連勝を記録した双葉山の影響で興行日数は1937年5月場所より13日間となり、1939年5月場所より15日間と移り変わる。第二次世界大戦の影響が次第に相撲界にも及び、1944年に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。1945年5月場所は晴天7日間、神宮外苑相撲場(後の明治神宮第二球場)で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で傷痍将兵のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。今日まで唯一の本場所非公開開催である。これが戦争中最後の本場所となった。ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は春日野部屋で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋では後々まで稽古場に当時の土を保存していた。また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいた。東京大空襲で両国国技館や相撲部屋を焼失。戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。1945年9月に土俵を16尺(約4.84m)と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所(11月:10日間)が開催された。土俵については力士会の反対で元の大きさ4.55m(15尺)に戻された。1946年に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装された。そのこけら落としとして、同年の11場所(13日間)が行われた。連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、1947年には明治神宮外苑相撲場にて行うこととなる。青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は1948年の5月をそれぞれ執り行うに留まった。同じ年の1948年の秋場所(10月:11日間)には、戦後初の大阪場所が大阪市福島公園内に建築された仮設国技館で開催された。この時期に、優勝決定戦や三賞制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われた。1949年になり日本橋の浜町公園内に仮設国技館(木造)を建設し、ようやく1月場所(13日間)を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館(蔵前国技館)も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となった。その為、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。1950年から1952年は、本場所(1月、5月、9月)が各15日間行われた(ただし1952年は大阪場所が開かれず、3場所とも東京で開催)。このうち大阪は、1950年9月場所は阿倍野橋畔に、1951年9月場所は難波(現在の大阪府立体育会館所在地)にそれぞれ仮設国技館を建て興行を行った。1952年に難波の仮設国技館を建替え、鉄骨製の大阪府立体育館(1987年から大阪府立体育会館)が竣工。翌1953年3月場所の会場となった。以後3月場所は大阪開催となり、現在に至る。横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる横綱審議委員会が発足した。1957年には理事長に重要事項の建議を行える「運営審議会」も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。全国的にテレビが普及するに従い、NHKの相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。栃錦と初代・若乃花の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。1957年には11月場所(九州場所、福岡スポーツセンター)、1958年には7月場所(名古屋場所、名古屋市金山体育館)を行うようになり、現在のような6場所(1月、3月、5月、7月、9月、11月)、15日間という体系になった。また、1965年1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され、それぞれ現在に至っている。国会で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと(1957年4月、衆議院文教委員会)を受けて、相撲茶屋制度の改革、月給制の導入、相撲教習所の設立などの改革がこの当時行われた。横綱審議委員会の内規もこの時期に充実した。また、1961年には年寄の停年制が実施された(「停年」の表記については後述)。1967年には前頭・十両の枚数削減も実施した。1968年には役員選挙の制度を改定、1969年には勝負判定にビデオ映像の使用を開始した。1971年に中学在学中の入門が禁止され、当時在籍していた中学生力士は、卒業まで東京場所の日曜日のみの出場となった。1972年1月場所からは、公傷制度が導入された(2003年11月場所まで)。1965年にはソ連、1973年には中国、1981年にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。1985年1月、現在の国技館が完成し、再び両国に相撲が戻った。若貴兄弟(貴乃花光司・若乃花勝)の活躍により、一時相撲ブームが起こった(二人の名を取って若貴ブームとも呼ばれた)。伯父が名横綱・初代若乃花、父が名大関・初代貴ノ花という血統が、オールドファンを呼び戻すとともに、貴乃花の精悍な風貌、若乃花の人好きのする童顔は、それまで相撲に興味のなかった層の女性ファンも獲得した。一方、千代の富士貢の引退が呼び水になったように生じた横綱不在、群雄割拠の中、まず小錦が抜け出した。彼は膝の故障をついに克服しきれず、史上初の外国出身横綱を逸したが、ハワイ出身の後輩、曙、武蔵丸が共にこれを果たし、優勝も二桁10回以上を重ねた。1993年から2000年頃にかけては、若貴兄弟らの二子山部屋勢対曙・武蔵丸のハワイ勢の様相を呈した。貴乃花は曙らを抑えて優勝22回を数え日本人力士の体面を保ったが、その引退と入れ違いのように外国出身力士の主流はモンゴル勢に移った。2006年3月場所では、優勝と三賞をすべてモンゴル勢で占めることになった。ブルガリア出身の琴欧洲やエストニア出身の把瑠都が大関に昇進するなど、旧東欧圏出身力士も目立ち始めた。2006年1月場所の栃東以降、2016年1月場所の琴奨菊に至るまで、約10年もの間日本出身力士による幕内最高優勝は達成されていなかった。(外国出身の日本国籍取得者による幕内最高優勝は、2012年5月場所に旭天鵬が達成)2011年2月に八百長問題が発覚し、3月場所が休止となったが5月場所が技量審査場所として開催され、7月場所から本格再開された。2014年1月30日 - 公益財団法人の登記を行い、新法人としてスタートした。財団法人となった1925年以来89年ぶりの衣替えで、引き続き税制の優遇を受ける。。プロ興行としての大相撲では、公式戦(技量を査定し、待遇(地位と給与)を決める性質がある)である本場所は年間6回行われる。本場所のない時期には、地方巡業を行う。本場所の回数の少なかった時代には、各部屋や一門別に巡業をしていたが、年間6場所制が確立した以後は、協会が管理して行われるようになった。この巡業での収入が、協会や各部屋にとっても大きな位置を占めていたので、明治から大正・昭和初期にかけての力士の待遇改善の要求には、巡業収入の配分の明朗化がスローガンとして掲げられることが多かった。地方巡業は、各地の興行を希望する〈勧進元〉と呼ばれる人たちが協会に巡業開催の契約金を支払い、興行権を譲り受ける形(売り興行)で長年行われてきた。しかし1995年の巡業改革により、当時の境川理事長の下で勧進元主催から協会の自主興行に変更された。ところが地方巡業は1992年の年間94日間をピークに減少を続け、ついに2005年には1958年以降最小の15日間までに落ち込んだ。そのため、北の湖理事長の下で再び勧進元形態に戻すことになった。2006年に再開された海外巡業についても、地方巡業の増加対策と並ぶ巡業改革の一環となっている。地方巡業における各地の相撲ファンとの接触は、相撲の全国の普及に力を発揮している。かつては巡業で現地の有望な青年を入門させ、そのまま巡業に帯同させて、帰京して初土俵をふませたケースも多くあり、夏休み終了後の9月場所の初土俵力士にはそういうケースが目立っていた。2013年現在海外公演とは、日本国外から招待を受けて日本相撲協会主催で日本国外にて取組を行うことである。日本の伝統国技を日本国外で披露すると同時に、相手国との友好親善、国際文化交流に寄与することを目的にしている。力士は「裸の親善大使」などと呼ばれ、これまでに13回開催している。協会とは別に主催者となる地元の興行主(勧進元)がいて、日本国外の大相撲ファン拡大と収益を目的にしている。ただし、力士が土俵で取組を披露したり、国際文化交流を図ったりするなどの形態は海外公演と変わらない。海外公演より歴史は古く、これまでに11回開催している。国威発揚のために大相撲が利用された昭和戦前期には、満州をはじめとする大陸巡業が恒例となっており、国際連盟の委任統治領であった南洋群島に巡業したこともある。しかし、これらの巡業は各部屋・一門による海外巡業であり協会全体での巡業ではなかった。戦後はハワイ巡業がしばしば行われ、そこでスカウトされたジェシー・ジェームス・ワラニ・クハウルア青年が高見山大五郎の四股名で関脇にまで昇進した。大相撲内での力士の地位は「番付」と呼ばれる順位表で表される。大相撲は幕内を最上位に、以下十両・幕下・三段目・序二段・序ノ口 と続く6つの階層から成りたつ。その中で最上位の幕内も上位から横綱・大関・関脇・小結・前頭の5つに分けられている。各力士は一場所ごとに自分が所属する階層内で決められた数の取り組みを行い、その成績によって各階層内での順位付けや各階層間の昇進や降格が行われ、それら全ての順位を一場所ごとに表した物を番付と呼ぶ。番付とは別に、幕内と十両の上位2階層は関取と呼ばれ下位の4階層と区別されることが多く、幕内の大関・関脇・小結は三役と呼ばれ、前頭は「平幕」と呼ぶことが多い。番付は基本的に勝ち越せば上がり、負け越せば下がる。ただし、同じ地位で同じ成績をあげても運不運が生じる場合がある。これは他の力士の成績との兼ね合いや各階層の定員が決められている事から来る物である。それとは別に三役や横綱への昇進のかかるケースで不公平感が問題視されることがある。横綱や大関への昇進には特に優秀な成績が求められるが、その基準が定常的な基準となっていないため、昇進にあたり都度昇進条件が検討されることとなっている。その昇進の基準や条件が客観性の明らかな数値基準ではないため、物議を醸し問題となる場合が多い。背景には、出身地や人種による人気の格差や看板である横綱・大関の人数を確保したい興行上の理由があると考えられる。本場所の取組は、日曜日から翌々週の日曜日までの1場所15日間で行われる。最初の日を「初日(しょにち)」、8日目を「中日(なかび)」、最終日を「千秋楽(せんしゅうらく)」と呼ぶ。幕内の取組は、幕内力士土俵入り、横綱土俵入りの後、16:15頃(以下日本時間)から行われ、千秋楽を除き大体18:00前後に全取組が終了する(大相撲中継に合わせるため)。一日の取組のうち、幕内以後を「中入り後」と呼び(ニュースのスポーツコーナーで報じられる結果は全てここから)、最後の取組を「結び(の一番)」と呼ぶ。また、全取組終了後に弓取式が行われ、これが終わった時点で「打出し」としてその日の日程は終了する。また、千秋楽に限り、残り3番となったところで、取組を控えた6人の力士が東西それぞれ3人ずつ土俵に上がり揃い踏みを行う。これを「これより三役」と呼ぶ。幕内に続く上位リーグが十両で、15:00頃から15:50頃にかけて取組が行われる。下位リーグは、上位から幕下、三段目、序二段、序ノ口となっており、序ノ口には新規入門力士が多く登場する。関取を目指そうと、9:00頃から始まり15:00頃まで取組が行われる。さらに序ノ口の取組前には、番付にも載らない入門したての力士たちによる前相撲が行われる。幕内と十両では1場所で1人15番、幕下以下は1人7番の取組を行い、勝利数で優勝者を決める。勝利数が同じ場合は優勝決定戦を行う。リーグは総当たり制ではなく、本割(ほんわり、正規の対戦)では同じ部屋に所属する力士同士は対戦しない。これは部屋別総当たり制と呼ばれる。部屋が違っても実の兄弟同士、および実の叔父甥の関係の取組は組まれないのが不文律であったが、2009年1月29日の理事会において4親等以内の力士同士での本割取組を行わないことを決定し、取組編成要領に明文化されることになった。なお優勝決定戦においては現行通り、4親等以内でも対戦させる。場所中の取組で白星(勝利)を多く重ねてくると、下位であっても終盤の対戦相手に上位の力士を割り当てられる。力士が本場所の取組で過半数(十両以上は8日、幕下以下は4日)勝つことを「勝ち越し」、これに満たないことを「負け越し」という。次の場所では勝ち越した力士の番付が上がり、負け越した力士の番付が下がる。ただし、横綱・大関は最上位の番付であるため昇進には厳しい条件がつけられているほか、横綱に降格はなく、大関の降格も2場所連続負け越しの場合に限られる(大関が負け越して翌場所陥落の可能性があることを角番という)。十両と幕下以下では力士の待遇で示すとおり大きく待遇が異なるため、幕下上位の取組や十両下位力士と幕下との取組では熾烈なものとなる。好角家にはこれらの取組を楽しみにしているものも多い。番付には、東と西という区別がある。元々は興行を行う際、現在のような単一の相撲集団ではなく興行ごとに複数の相撲集団を招いて対抗戦の形をとった。その際江戸時代までは天子のいる西方が尊ばれたことから元方(もとかた、地元側、ホーム)を西方とし、寄方(よりかた、遠征側、ビジター)を東方に置いた。そして唐の影響から左方が尊ばれていたため土俵において正面から見て左を西、右を東とした。このことは谷風と小野川の取組を描いた図で確認できる。江戸時代から明治時代にかけては漠然とした東西対抗制で、組替時を除いて力士が東と西とを行き交うことはなく、番付の昇降も東西それぞれで行われ、東西の同じ側同士の対戦はなかった。江戸時代においては各地方の相撲集団やお抱え大名が実質的な所属先となっており相撲部屋に所属することは興業に出場するための形式的な条件に過ぎず、それ故お抱えが異なれば系統や部屋に関係なく割が組まれる場合もあった。また、東と西との2枚の番付を作っていた大坂相撲とは違って、東西を1枚にまとめた江戸相撲では、土俵上の東西そのままに東が右側に配置されていたが、最初は東西の間に優劣はなかった。明治維新後に天皇の住まいが東京になったことから土俵上の東西が入れ替わり現在と同様に正面から見て左が東、右が西と変わった。1890年5月に、横綱免許を受けていた大関・初代西ノ海嘉治郎が張出大関にさせられることに抗議した結果、番付上に初めて〈横綱〉が明記されたとき、東に張り出されたことから、横綱を東方におくようになったことで、東が優位という印象が明確になっていった。1909年の夏場所に、国技館が開館したときに、幕内に団体優勝制度ができた。番付の東と西とで対抗戦をして、勝ち星の多いほうに優勝旗を授与し、翌場所の番付を東に配置することにしたのである。これを東西制と呼んだ。優勝旗は勝った側の関脇以下の幕内力士のうち最優秀の成績をあげた者が優勝旗手の栄誉を得ることと決められた。これは好評を呼び、当時の好角家の間でも、〈出羽海びいき〉〈連合(非出羽方)びいき〉という区別もできた。ただし、東西の戦力バランスの関係や、横綱が片方に偏らないように、ときどき東西の組み替えも行われた。なお、このシステムは幕内だけで、十両以下に関しては下記に述べる系統別総当たり制で東西の区別もなかった。1932年の春秋園事件の結果、脱退者が多く、幕内力士の人数が少なくなったために、春場所から東西制を中止し、一門による系統別総当たり制を幕内でも実施するようになった。しかし、出羽海部屋の幕内力士が増加し、公平な取組をつくることが難しくなったので、1940年1月場所から、ふたたび東西制にもどし、団体優勝と旗手の制度を復活させた。しかし、それでも東西のバランスをとることはむずかしく、配置換えも何度もおこなわれ、伊勢ヶ濱部屋や朝日山部屋の力士が東西に振り分けられることさえあった。(もちろん同部屋の力士同士の対戦はなかった)戦後、大相撲の人気回復のために、優勝決定戦や三賞制度を導入すると同時に、取組の多様化を進めるために、1947年11月場所から、系統別総当たり制に戻した。しかし、立浪部屋と時津風部屋が一門としては別なのに、師匠同士が兄弟弟子(羽黒山政司と双葉山)というだけの関係で対戦がないことや、二所ノ関一門が次々と分離独立していったことから、再び取組が硬直化して不公平感が生じてきたので、1965年1月場所から、完全な部屋別総当たり制を実施し、現在に至っている。幕内最高優勝は1909年6月場所、新聞社による最高成績者への優勝額贈呈によって事実上始まった。当初は物言いがついた相撲であえて決着をつけない預りや、取り組み編成後に一方の力士が休場した場合、相手力士も休場扱いとなる制度などあって、これらが優勝争いを左右することも少なくなかった。その後、預りの廃止や不戦勝制度、同点の場合の優勝決定戦の導入などがありつつ、勝ち越し点(勝ち-負け)で優勝を争う大筋は変わらぬまま現在に至っている。同じ幕内に属して(2014年現在の定員は42名)幕内最高優勝を争う立場であっても、上位と下位で15日間の対戦相手がまったく違うことなどへの批判もあり、過去に横綱・大関とまったく対戦せずに全勝した時津山仁一や、十両力士への敗戦があった佐田の山晋松の優勝が物議を醸した例がある。そのため、現在では幕内下位で優勝争いの先頭または2番手につけている力士を、終盤に横綱・大関と対戦させることで、優勝の価値の公平化を図っている。所属部屋ごとの対戦相手の不公平もしばしば問題視される。近年の例では、二子山部屋や武蔵川部屋の幕内力士が上位に集中していた、1990年代後半から2000年代初頭に、個人別総当たり制の導入が話題になったことがあった。養成員(幕下以下の力士)時代は大部屋で共同生活を送るという相撲部屋のしきたりが、個人別総当たり制の実現を妨げる要因となっている。義務教育を修了した、身長167cm以上、体重67kg以上の新弟子検査実施日時点で23歳未満の男子である。ただし、中学卒業見込みの者で3月場所に新弟子検査を受ける者に限り、身長が165cm以上、体重が65kg以上となる。また、学生・アマチュア相撲で優秀な成績を残した者は体格は不問となり、年齢上限も25歳未満となる。国籍は不問だが、「外国出身力士は各部屋1人ずつ」という規定が存在する。大相撲力士の報酬制度は、地位によって与えられる給与・手当と、成績給に相当する力士褒賞金(給金)と、いわゆる2階建てになっている。(2006年1月現在、単位:円)十両以上の力士には、次の通りの金額が月額給与として支給される。支給単位は本場所ごとになっているため、11月場所で十両で負け越し、1月場所で幕下に陥落した場合でも12月分の給与は支給される。このため、幕下陥落が確実になり引退の意思を表明した力士が、翌月分の給与確保のため引退届提出を番付編成会議後まで遅らせ、番付に名を残すケースも多い。賞与は、9月と12月にそれぞれ月額給与の1カ月分が支給される。したがって、年額賞与は月額給与の2カ月分である。賞与の支給月が世間一般の6月と12月と違っているのは、以前に支給されていた巡業手当が賞与に変わったためである。本場所特別手当は、三役以上の力士に対して本場所ごとに年6回支給される。11日間以上出場した場合は全額、6日 - 10日間出場した場合は3分の2、5日間以下の出場の場合は3分の1が支給され、全休(不戦敗も含む)の場合は支給されない。出張手当は、3月場所、7月場所、11月場所の年3回、各場所ごとに次の通りの1日分支給金額を35日分支給される。力士補助金は、1月場所、5月場所、9月場所の年3回、髪結の補助金として支給される。場所ごとに過去に残した成績に応じて支給される。計算の基礎となる持ち給金(支給標準額)の累積は序ノ口から始まり、持ち給金を4000倍した金額が十両以上の力士に支給される。持ち給金は勝ち越し1点につき50銭ずつ累積され、負け越しや休場などでの減額はない。金星や幕内優勝では大きな加算があるほか、十両・幕内・大関・横綱と持ち給金の最低額が決まっており、昇進時に累積額がその金額に満たなければ番付に応じた最低額まで引き上げられる。幕下以下は「力士養成員」と呼ばれ、給与と力士褒賞金は支給されない。次の通りの金額が場所手当として本場所ごとに年6回支給される。(2006年1月現在、単位:円)また本場所の成績により、次の通りの奨励金が支給される。(2006年1月現在、単位:円)このほか、本場所における電車賃が乗車券で支給される。力士養成員でも、寝食は各々相撲部屋で出来る(費用は協会から部屋持ち親方に対して、力士養成員1人につき月額70,000円、年額840,000円が支給されている)うえに、共同の食事「ちゃんこ」もあるので、幕下以下の生活が続いても食いはぐれることはない。ただし慣習としての部屋への上納つまり「持ち出し」もあるので必ずしも全額が可処分所得になるわけではない。特に親方、部屋の看板である十両以上の力士はかなりの額を「持ち出し」せねばならないが、逆に部屋に十両以上力士がいるかいないかで部屋の生活水準、ひいては本場所成績が大きく異なってくる。大相撲の力士がテレビのCMに出演することを全面禁止していた時代があった。これは1985年からで、大相撲の力士は本業の相撲でPRすることに専念するようにしてほしいという春日野理事長(当時)の方針に沿ったものであった。ただしCM禁止中の時代でも、巡業を支援するスポンサーと公共の広告に限って出演することはあった。ナショナル(後のパナソニック)乾電池の小錦、日本航空の大相撲ブラジル公演PR、国民年金の貴乃花、若乃花などがある。2002年2月に一般企業のCM出演は解禁されており、その第1号は日立マクセルDVDメディアの栃東である。取組によっては企業が懸賞金を提供するケースがあり、勝利した力士に授与される。企業から提供される懸賞金は2014年5月以降は1本につき62,000円となっているが、納税充当金として26,700円、協会の事務経費として5,300円が天引きされ、力士の手取りは懸賞金1本当たり3万円となる。十両以上の力士には、現役引退時に退職金に相当する養老金および勤続加算金(いわゆる一般功労金)が支給される。資格者は幕内連続20場所以上または幕内通算25場所以上の者で、それに満たない者は非資格者となる。ただし、現役中に協会から除名処分を受けた者には支給されない。解雇処分された者については理事会の付帯決議で一部または全部の支給が見送られることがある。(2006年1月現在、単位:円)番付の各地位における勤続場所数を乗じて、それぞれを加算した金額が勤続加算金の合計となる。下表の( )内の数字は、非資格者。(2006年1月現在、単位:円)横綱・大関には、現役引退時に理事会の決議により養老金および勤続加算金とは別に特別功労金が支給される。かつては、支給額は公表されていたが、2005年4月1日から個人情報保護法が施行されたことにより、同年5月場所から支給額は非公表となった。この措置に対しては公益法人たる財団法人日本相撲協会の方針として不適切であるとの意見もある。力士には、地位によって以下の待遇の違いがある。このほかにも以下のような違いがある。歴史的に見て、力士は永く薄給で酷使されてきた。江戸時代には本場所の興行収入は一部の年寄たち(江戸相撲会所。現在の日本相撲協会の先祖)によって山分けされ、看板となるような人気力士、花形力士は別として、大半の力士への給与はなけなしのものだった。三役力士ともなれば、大名家からお抱えとされ、藩士としての報償を受け取り、また贔屓客からの祝儀もあった。こうした力士は地方巡業へ出掛ければ各地の興行主(勧進元)から引く手あまたであって、むしろ懐は他の武士階級より潤っていた。一方、そうでない大半の力士は、細々と自主興行による「手相撲」で地方巡業を行い食いつないでいた。但し、いわゆる「力人信仰」から来る善意の喜捨も多く、本当に食うに困るまで困窮する力士は少なかった。本場所で「星を売る」、いわゆる八百長行為も横行していたと見られており、現在でも度々、八百長行為の存在が指摘されている。但し、その真相解明は八百長行為を名指しされた者が八百長行為を認めることはないため 事情聴取も内輪の狎れ合いで済まされ、尻すぼみに終わる。明治に入って以降も、大名家が藩閥政治の有力者となった以外、こうした状況は変わらなかった。そのため力士による待遇改善要求は度々おこり、昭和における春秋園事件はその最後にして最大のものだった。相撲取りが相撲を取ることによって生計が立つようになったのは、昭和に入ってからと言って良い。1958年(昭和33年)、こうした相撲界の体質は国会で問題視され、それ以降は月給制等による力士の待遇改善の試みが進んだ。それでも、年6場所および地方巡業により一年間のほとんどを拘束される力士たちに対しては、「時給で見れば世界でもっとも可哀想なプロスポーツ選手」という声がある。個人事業主として活動する多くの他のプロスポーツ選手と、給与所得者として活動する力士との間では労働条件を異にする部分があるため一律には比較できないものの、横綱でも他のプロスポーツ選手のトップクラスと比べると相当に安い。実際に小錦は自身の大関在位時代(1987年7月場所から1993年11月場所)の月給について「100万円くらい。僕たちは着物を着るけど、安くても一つ30万円」と証言しており、地位に見合った着物など必需品を自費で購入することを考えれば安いとする主張をしたことがある。同時に「僕の時代は、どんな幕内力士でも(懸賞は)必ずあった」とも話しており、さらに「僕も200万近く貰っていた。一番いいときに」と自身の全盛期には場所の懸賞金が1ヶ月分の給料を上回っていた事実も明かした。この時代に及んでも尚、協会から支給される月給だけでは関取個人の生活にも不足が生じる前提が生じていたのである。2001年(平成13年)に力士・年寄の給料増額が記録されたことを最後に平成26年(2014年、同年分は2013年11月場所8日目理事会で決定)まで13年連続で給料据え置きとなっている。2008年には当時の力士会会長の朝青龍が「せめて場所入り用の交通費ぐらい何とかしてくれ」と相撲協会に賃上げを要求したが首脳陣に相手にされなかったという報告もあり、概して昨今の協会は財政状況が潤沢でない。一方で、税金対策や引退時の退職金制度等の表面に表れにくい部分では、他のプロスポーツより充実しているという見方もある。例えば、国技館内には力士のみならず一般の診察も受け付ける診療所があること、健康保険組合を独自に運営していること、厚生年金制度を導入していること、また税金面においては給与所得や退職所得が適用されることにより、自身の報酬を事業所得として申告する他のプロスポーツ選手には無い手厚い控除が受けられること等である。1969年3月11日には国税庁が力士等に対する課税について個別通達を行っており、これに従うことで後援会から受け取る祝儀などを含めて力士が得る有形無形の収入について適切な形で租税計算を行うことが可能となっている。収入の無い幕下以下の力士であっても社会保障を受けることが可能であり、この場合は全額協会保証となる。福利厚生についてはむしろ一般企業に近いとも言える。金銭面に関しては、後援者(タニマチ)からの祝儀が大きな収入源の一つになっている。各力士によってタニマチの大小はあるが、横綱・大関などへ有力な人物がタニマチになった場合、優勝時には1,000万円以上の祝儀が集められるという。特に千代の富士の全盛時は一晩で5,000万円集まったという。これは角界では後援者からの祝儀は給与より大きな比重を占めているという現実がある。年寄株の取得資金、部屋経営の資金、有力学生相撲選手の獲得資金等も含めて、角界はタニマチなしでは成り立たない構造となっている。力士が引退後協会に残らない時や年寄が停年を待たずに退職する場合などには廃業という言葉を用いてきたが、現役幕内力士であった旭道山和泰が衆議院議員選挙に出馬し当選したことがきっかけとなり、語感もあまり良くないことから1996年11月17日から次のように表現を改めた。満65歳(誕生日の前日)を以って年寄は定年退職となるが、日本相撲協会では停年の表現を用いる。年を取ることをやめ、余生を楽しんでもらいたいという意をこめてのことである。なお、2014年11月16日からは停年になった年寄の再雇用制度が発足しており、この制度の適用を受けた年寄は給与が停年前より低くなり、部屋を持つことができないなどの制約はあるものの70歳までは日本相撲協会に残ることができる。横綱審議委員会と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士(年寄)によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、年寄株もむしろ余り気味なことが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き(額面は9桁、億単位に達している)、1998年5月には「準年寄」制度の導入などで対応したが(2006年末廃止)、それでも数々のトラブルが発生している。小錦、若乃花(花田虎上)、曙といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、芸能界や格闘技、プロレスなど他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。またその閉鎖性のため旧態依然の封建的体質が色濃く残り、一部の部屋では、俗に「かわいがり」と言われる(稽古名目での)私刑が横行している状況であり、下位力士を竹刀で叩くなどの厳しい指導を行うことに対する批判がある。2007年には時津風部屋力士暴行死事件が発覚。愛知県警が双津竜順一らを立件する事態にまで至り、日本相撲協会北の湖敏満理事長が文部科学省より呼び出され事情を説明する騒ぎとなっている。また、時津風部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に時津風部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生している。2010年9月にも、元十両・大勇武龍泉が芝田山親方(大乃国康)から暴行を受けたとして被害届を警視庁に提出。親方は書類送検されたが2011年1月起訴猶予となり、2012年12月に両者の間で和解が成立した。また、力士養成員への手当金の親方による着服疑惑とそれによるトラブルも繰り返し指摘され続けているが、関取になったときに力士として認められるという慣習ゆえに、対応が取られた様子は当然ない。理事会の申し合わせにより各部屋の外国出身者(日本国籍取得者も含む)の採用は1人までとされており、個人の出身地により参加機会が不均等になっている。また年寄になるためには、日本国籍が必要である。運営上の閉鎖性問題もあるが、これは日本相撲協会が文部科学省所轄の公益財団法人であることが大きい。外国出身で役力士を務める者ももう珍しくはないが、元高見山の12代東関や元武蔵丸の当代武蔵川など日本国籍を取得(帰化)して相撲協会に残る者もいる一方、元朝青龍や元把瑠都のように横綱大関まで登り詰めながら引退時に帰化しておらず、その特権を利用できずに退職を選択する力士も現れている。大相撲は、力士が大銀杏などまげ(髷)を結うなどの日本の伝統的・古風な文化の他、土俵上への女性の立ち入りを認めない(春場所は2000年以降、時の大阪府知事・太田房江による知事賞の直接授与が認められなかった)など。そのため、一部のフェミニストからは異論の声があがっている。ただし、横綱審議委員も経験した内館牧子は著書『女はなぜ土俵にあがれないのか』の中で、相撲が宗教的儀式としての歴史と伝統を検討し、この文化論争を抜きにして男女共同参画の観点を安易に持ち込む風潮に疑問を呈している。近年の日本では力士になりたいと思う少年の数は減少しており、2007年の名古屋場所にて行われた新弟子検査での受検者数はゼロであった。それと併せて、大学相撲出身者および外国人による力士数の増加により、「宗教色を帯びた伝統的な儀式」よりも「一般スポーツ競技の一種」と捉えている力士数が増えている。本場所の観戦チケットの販売は相撲茶屋を前身とする国技館サービス株式会社が行っているが、一部の常連客への優遇が根強く、一般の観客の枡席券入手は困難な状況が続いている。大相撲の公演中、升席では喫煙が認められていたが、健康増進法の施行に伴い、2005年(平成17年)1月場所から全館禁煙となった(室内スポーツの観覧席で唯一タバコが吸えた場所が大相撲の升席であったが、以前から他の観客や力士の健康や防災面からも異常との指摘も多く、ようやく重い腰を上げた形である)。そのため、升席で使用していた灰皿が相撲博物館に寄贈された。灰皿は陶製の物であるが、木枠に入っているなど特殊な形状をしている。金星などの番狂わせがあったとき、観客が座布団を投げる光景が見られることがある。2008年11月の大相撲九州場所からは、座布団投げ自体を危険行為とみなして厳しく取り締まることになり、マス席の座布団は、これまでの1人用の正方形4枚から2人用(縦1メートル25、横50センチ)の座布団2枚に変更し、さらに2枚をひもで結んでつなげた形に変わった。これにより、1人でも座布団に座っていれば座布団を投げられない仕組みになった。しかし、重さが2枚計4.8キロとなって投げられた場合の危険性が増したということで、同場所以降は、座布団投げが確認された場合は警察に通報するという厳罰化がなされた(詳細は「座布団の舞」の項を参照)。1961年から1991年まで、パンアメリカン航空賞が優勝力士に送られていた。この贈呈にはパンアメリカン航空極東支配人のデビッド・ジョーンズが、「ヒョー、ショー、ジョォー」という独特の言い回しで始まる、方言なども取り入れた、ウィットに富んだ表彰状の読み上げを行い、好評を博していた。ジョーンズの注目度が非常に高かったため、多くの国々から友好杯などの賞が増えるきっかけともなった。しかし、1991年5月場所を最後に同賞は廃され(パンナム自体その約半年後に倒産)、ジョーンズも2005年2月2日に逝去している。「フランス共和国大統領杯」は、知日派で大の大相撲ファンを自他ともに認めていた第五共和国第五代大統領・ジャック・シラクが設けた優勝力士に対する大統領顕彰だったが、2007年5月にニコラ・サルコジが第六代大統領に就任すると、これをあっさりと廃止してしまった。シラクとの対比を自己の選挙戦の推進力としていたサルコジは、「坊主憎けりゃ袈裟まで」の方便をあらゆる分野で繰り広げた。その結果、シラクが幕内力士の名を諳んじるほどの相撲通だったものとは正反対に、サルコジは「あんなのは長い髪を結った太った男たちがやる、決して美しいとは言えないスポーツにすぎません」と大相撲を一方的にこき下ろすこととなり、これが事実上の選挙公約の一つにまでなってしまったためである。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。