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布袋寅泰

布袋 寅泰(ほてい ともやす、本名同じ、1962年2月1日 - )は、日本のロックミュージシャン、ギタリスト。身長187cm。血液型B型。群馬県高崎市江木町出身。ロンドン在住。BOØWY時代のビーイング、Ø-con' nection、ユイ音楽工房、ソロ活動後のIRc2 CORPORATIONを経て、渡英後はDADA MUSICに所属。同事務所の代表取締役社長も務める。1981年、BOØWYのギタリストとしてデビュー。BOØWY解散後はソロ活動の他、吉川晃司とのユニット・COMPLEX、他ミュージシャンへの楽曲提供など幅広く活動している。またレコーディングではギターだけでなく、ベース、ドラムス、キーボードなども演奏する。また、海外では『HOTEI』名義で、イギリス、ドイツなど欧州でアルバムをリリースしている。イギリスのロックバンド、ジーザス・ジョーンズと親交があり、ジョイントツアーも行った。近年は映画やCMへの出演など、俳優としての活動も行っている。「最新のHOTEIが最高のHOTEI」がモットー(ポルシェ社のキャッチコピーから)。現在の愛車はトヨタのアルファード、AMGのE63T、シボレーのエクスプレスバン、アストンマーティンのV8ヴァンテージ。A-ROCK本選会にてアイデア賞を受賞し、17歳(高校3年時に中退後)の時上京。1981年に氷室京介らと共に暴威(後に「BOØWY」と改名)を結成。翌1982年にリリースしたアルバム『MORAL』でデビューする。BOØWYは1987年12月24日渋谷公会堂で解散を発表し、翌1988年4月に行われた東京ドームでのライブ『LAST GIGS』をもって活動を終えた。BOØWY初期には、演劇型アプローチのロックバンド、AUTO-MOD(他に、高橋まこと、PERSONZの渡邉貢らが在籍)やPETSというバンドにも参加していたり、ギタリストとして知られるようになってからは、鈴木雅之のソロデビュー曲『ガラス越しに消えた夏』をはじめ、吉川晃司・中島みゆき(後藤次利プロデュース)、アニメ『ストップ!! ひばりくん!』ED、『風の谷のナウシカ』サウンドトラック、山下久美子(吉田建プロデュース)などのアルバムに参加している。また1985年6月から8月にかけては泉谷しげるのバックバンドのメンバーとして、1986年以降は当時の妻だった山下久美子のバックバンドのメンバーとしても活動していた。BOØWYでの活動を終えて、氷室京介が1988年7月21日にソロデビューしたのに続き、半年後の同年10月にソロ1stアルバム『GUITARHYTHM』をリリースし、ソロ活動を開始。藤井丈司・ホッピー神山とのコラボレーションによるギターとコンピュータの融合で歴史に残る斬新なアルバムとして注目された。イギリスにおいてシングルを発表するも注目されることはなく、同年12月に吉川晃司とCOMPLEXを結成し、シングル「BE MY BABY」でデビュー。2枚のアルバムを発表したが、音楽性の違いで吉川と対立し、1990年11月8日に行われた東京ドームでのライブをもって無期限活動休止に入る。COMPLEX休止後は一貫してソロ活動に専念する。音楽プロデューサーとして今井美樹、相川七瀬、TOKIO、藤井フミヤ、JILL(PERSONZ)や江角マキコなどのアーティストに楽曲を提供したり、『新・仁義なき戦い』や『KT』などの映画音楽も手掛ける。また『新・仁義なき戦い』や『サムライ・フィクション』などでは俳優としても活躍。その長身と強面を生かし、永瀬正敏とのコマーシャルにも出演。1990年-1993年、NHK-FM『ミュージック・スクエア』木曜日分のパーソナリティを務める。1994年、東大寺にて行われたUNESCO主催の『GME '94 〜21世紀への音楽遺産をめざして〜 AONIYOSHI』に日本を代表するアーティストのひとりとして出演。マイケル・ケイメン、ジョニ・ミッチェル、INXS、ロジャー・テイラー、ライ・クーダー、レイ・クーパー、レナード衛藤らと共演した。1996年、上記イベント『AONIYOSHI』をきっかけに交流を深めたマイケル・ケイメンからのオファーでアトランタオリンピックの閉会式に出演。1998年にはケイメンとギターとオーケストラとの融合作品『GUITAR CONCERTO』に参加したり、シングル「THANK YOU & GOOD BYE」のプロデュースをケイメンに依頼したこともあった。2003年、クエンティン・タランティーノからのオファーにより、『新・仁義なき戦いのテーマ』が『BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY』として映画『キル・ビル』のメインテーマに採用される。これによりイギリスのiTunes Storeの音楽部門で1位を獲得したり、欧州サッカー連盟の入場テーマにも使用されたりと、同曲の知名度は飛躍的に上昇した。2007年、 『HOTEI presents "SUPER SOUL SESSIONS" BRIAN SETZER vs HOTEI vs CHAR』と冠したライブにおいて、Charとブライアン・セッツァーとの競演を果たし、翌2008年にはKREVA、亀田誠治との単発ユニット『The THREE』にて、映画『隠し砦の三悪人THE LAST PRINCESS』の主題歌をリリースしている。長らくソロ・ミュージシャンとして活動していたが、2011年4月28日に公式サイト上にて、東日本大震災の復興支援ライブとして21年ぶりに東京ドームにてCOMPLEXの一夜限りの復活を発表。当初は7月30日のみの予定だったが、5月末には7月31日の追加公演も発表された。『日本一心』と銘打ったこのライブの動員数は2日間で10万人以上、収益は6億5431万8473円に上った。収益金は震災の復興、復旧に全額寄付された。同じく2011年には、映画のメインテーマを布袋がアレンジするという形で、12月に公開された同シリーズの第4作『』の日本国内向け宣伝用楽曲を手掛けている。2012年夏、長らく住み慣れた日本を離れロンドンへと移住。音楽面をはじめ自身に多大な影響を及ぼした同地にて新たな夢を叶える旨を表明した。2014年3月6日、ローリングストーンズの『14 ON FIRE JAPAN TOUR』東京ドーム公演に、バンド側からオファーを受けゲストとして出演。「RESPECTABLE」で共演を果たした。2015年4月、イギリス現地のレーベル『スパインファーム・レコード』と契約。同年10月にはアルバム『STRANGERS』をイギリス、欧州、日本にて同時リリースした。BOØWY時代やCOMPLEX時代は8ビートを基調としたポップな楽曲(いわゆるビート・ロックやパワー・ポップ)をメインに制作していたが、ソロアーティストとなって以降はデジタルロック、ニューウェイヴ、ファンク、グラムロック、ポップ・ロック、プログレッシブ、テクノ、クラウト・ロック、ブラス・ロック、ハウス、レゲエ、パンク、ポストロック、エレクトロニカ、ドラムンベース、アンビエント、ロカビリーなどをはじめとした様々な要素を取り入れたサウンドを展開しており、アルバム毎に音楽コンセプトを一変させ、世界観の異なる作品をリリースしている。このような姿勢について布袋は「日々変化してこそロックン・ロール」と語っている。自身が最も影響を受けたミュージシャンにデヴィッド・ボウイ、T-REX、ロキシー・ミュージックを、また自身をギタリストにしてしまった人物としてマーク・ボラン、ミック・ロンソン、クリス・スペディングを挙げている。特にデヴィッド・ボウイへの敬愛は強く、インタビューなどで頻繁に名前が登場している。また自身の音楽コンセプトを毎回変えるというスタイルもボウイから受けた影響のひとつである。他にも10cc、エルヴィス・コステロ、XTC、スパークス、クラフトワーク、デフ・スクール、スティーヴ・ハーレイ&コックニー・レベル、ディーヴォ、トーキング・ヘッズ、DAF、ウルトラヴォックス、ジグ・ジグ・スパトニック、ジーザス・ジョーンズ、ギャング・オブ・フォー、テレヴィジョン、デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ、ブームタウン・ラッツ、セックス・ピストルズ、リー・リトナー、アル・ディ・メオラ、ブリジット・フォンテーヌなどをはじめ多岐に及ぶ。現在でも非常に多くのミュージシャンを愛聴しており、自他共に認めるレコードマニアである。基本的にブリティッシュムーブメント(特にグラムロック、パンク、ニューウェイヴ)からの影響が強く、「Tシャツとジーンズで長髪に使い込まれたヴィンテージ・ギターといったカジュアルな出で立ちのアメリカンロックよりも、スーツ姿にメイクを施し髪を逆立てピカピカの真新しいギターを構えているブリティッシュロックの方が煌びやかで魅力を感じた」と語っている。一方でレイ・パーカーJr.、、ジョニー・"ギター"・ワトソン、アル・マッケイなど、ブラックミュージック系のギタリストを好んでコピーしていたことから、ファンクへの拘りも非常に強い。ライブ活動には非常に精力的であり、現在でもアリーナ、ホール、ライブハウスなど様々な規模のステージを踏んでいる。「ライブアーティストでありたい」「あくまでライブをやりたいから楽曲を作る」などステージを意識した発言は数多い。ステージセットや演出への拘りも強く、代名詞とも言えるアグレッシブで独特のステージアクションを評価しているミュージシャンも多く存在する。サポートメンバーはツアー毎に入れ替わることが多く、ライブコンセプトやサポートメンバーのスタイルなどによって過去の楽曲にもさらなるアレンジを施し、時にオリジナルテイクと大きく姿を変える。基本的にほぼ毎回のライブ及びツアーのたびに、新たにアレンジされた過去の楽曲が披露されている。また楽曲のみに留まらず、ファッションやビジュアル、アートワークも活動コンセプトの一端として重視している。作品の世界観に合わせてスーツや革ジャン、近未来風ファッションやゴシック調の衣装にも袖を通し、スタイリングも変える。このような姿勢はBOØWY結成当初から持ち合わせており、ヘアメイクや衣装、ライブコンセプトのアイディアをたびたびメンバーに提案していた。『INSTANT LOVE』の時期に、青山のブティック「T-KIDS」に衣装提供を直談判し実現させたというエピソードもある。また高校時代にレタリングの通信教育を受けていたことから、BOØWY時代初期はライブの宣伝チラシのデザインも担当していた。音楽以外に絵画や詩、映画、文学なども好み、曲作りに影響を受けたエピソードも著書やインタビューなどで語られている。アンディ・ウォーホル、ジャン・コクトー、アルチュール・ランボー、サルバドール・ダリ、アントニ・ガウディ、フィンセント・ファン・ゴッホ、ケネス・アンガー、スタンリー・キューブリック、ウィリアム・バロウズ、小池真理子などを趣味として挙げている。旅に出ることも多く、様々な土地でのエピソードがたびたび楽曲に反映されている。特にロンドンへの愛着は一際強く、2012年に同地へ移住する以前から別宅としてアビーロードにフラットを所有しており、レコーディングやプライベートでたびたび訪れていた。前述のような音楽趣向からビートへの拘りは非常に強く、様々な場面で口にしている。また自身のことを「リズム・ギタリストとかリード・ギタリストとかあるけど、僕はビート・ギタリスト」だと語っている。布袋のギタースタイルの象徴のひとつとして『BAD FEELING』のリフに代表される独特のカッティングが挙げられるが、これもビートへの拘りとファンク・ミュージックからの影響を強く受けていることが背景にある。バッキングの際はブリッジミュートを駆使してリズムを際立たせるプレイをすることが多く、ハードロックなどの歪み系のサウンドは出すことは少ない。「のっぺりと歪んだギターはあまり好みじゃなく、そういった音楽はあまり聴いてこなかった」とも発言している。ギターを弾く際のピッキングのアタック感やリズム感を意識している発言も多く、様々なミュージシャンから「布袋のギターはコンピューターのような正確さだ」と評価されており、スティーヴ エトウは「迷った時には彼のギターを聴けば確実」と語っている。アマチュア時代は毎日クラフトワークを聴きながら楽曲のループに合わせてギターフレーズを考えていたという時期も存在し、理想のギタリスト像について「マーク・ボランとレイ・パーカーJr.を合わせたようなギタリストになりたかった」「マーク・ボランのようなグラムな衣装で、黒人のようなファンキーなカッティングを、クラフトワークのビートをバックに踊りながら弾くギタリストという何とも奇妙なものだった」と語っている。同時にパンクやニューウェイヴからの影響により、アマチュア時代からストラップを長くして腰の位置で弾くなど、テクニックよりもオリジナリティーを重視してきた結果、未だに小指はうまく使えないという。一方で5弦6弦を親指で抑えるといったスタイルを多用しており、「親指の使い方には自信がある」と語っている。このようにリズムへの拘りは強いが、歌メロディーに踏襲したリードギターも大きな特徴である。ロック・ミュージックのギターソロやフレーズにおいて使用頻度が高いペンタトニック・スケールが布袋のギターソロ等ではほとんど使用されておらず、通常のドレミと同じ西洋七音階にて構成されている。特にBOØWY時代は「音階は音が離れていないほうが耳馴染みがいい」、「ギターソロは驚かせるものではなく、聴き手をほっとさせたい」、「アドリブっぽくならないように」と、本人曰く“簡単だけど耳に残るフレーズ”を徹底的に追求した。同時にギターソロに関してはテクニックよりも感情移入主義であるとしており、「(自分は)作曲者としてはBOØWYの『MARIONETTE』やCOMPLEXの『BE MY BABY』など、基本的にメロディが湧いてくるタイプ。ギター弾きっていうのは無限のメロディを持っていなかったら成り立たないし、優れたアドリブを弾けるには優れたメロディーメイカーじゃないと不可能。最終的には解釈もコード進行も関係ないし、全部気持ちの豊かさから来るもの」と語っている。BOØWY時代はコーラス、アナログ・ディレイ、ハーモナイザーをはじめ自らを「エフェクターの鬼」と称するほど多種多様のエフェクターを用いていたが、「(BOØWY時代は)4人バンドでコード楽器は俺しかいなかったから、広げたり飛ばしたりをやらないとすごくモノクロなロックンロールになってしまうのも手伝って、結構使ってた。BOØWYをやめた時にもうエフェクターを使う必然性はないなって」という言葉が示す通り、ソロ以降その数は減少している。しかしソロ・キャリアでもデジタル要素の強い作品をリリースするなど使用率は決して低くはなく、特にディレイは現在までマストアイテムとして定着している。ピックはオニギリ型のハードタイプを愛用。ピックと爪を同時に弦に当てながら弾く(ピッキング・ハーモニクス)為、独特のサウンドを奏でる。一度のライブで爪がかなり消耗することから、ツアー中はコーティングを欠かさず行っている。また「ギターは左手も大事だけど、それ以上に右手が大事」としており、「同じフレーズでもピッキング・ハーモニクスを利かせるなど、右手の使い方次第でサウンドに個性を出すことが出来る」と語っている。布袋自身の手は長身ながら小さく柔らかい為、このことと前述の5弦6弦を親指で押さえるというスタイルが『BAD FEELING』や『2人のAnother Twilight』など独特のカッティングを駆使したいわゆる「手癖フレーズ」を生み出すのに功を奏したと評している。マーティ・フリードマンは自身の著書にて、ギターの音を聞いただけで誰が弾いているかわかる日本の個性派ギタリストとしてChar、松本孝弘と共に布袋の名を挙げている。今井寿、TAKUYA、SUGIZOなど布袋からの影響を公言しているプロのギタリストも数多い。プレイのみに留まらず、独特のステージアクションも布袋の象徴として挙げられることは多い。ギターを始めた当初からステージで演奏することを考慮し、自宅でも立って弾いていたという。BOØWYがブレイクする以前は新宿のツバキハウスや六本木のクライマックスなどのディスコへも盛んに足を運んでおり、「ギターをかき鳴らすアクションでジャンプしながら踊っていた。間違いなく自分のステージアクションの原型は、ツバキハウスとクライマックスのダンスフロアで出来上がったと断言できる」とのことである。50代となった現在でも、体力を維持する為に週3回のトレーニングを欠かしていない。楽曲制作に関しては、作曲を優先(曲先)にする。ギターリフから作ったもの、ベースリフから作ったもの、メロディから作ったもの、リズムパターンから作ったものと、バラエティに富んでいる。前述の通りライブへの拘りが非常に強い為、作曲の時点ではあまり意識しないが、編曲はライブを意識して行っており、基本的に「ライブで再現出来ないことはCDでも演らない」というスタンスである。ステージでのパートはギターとボーカルのみだが、レコーディングの際はベースやキーボードなども自らが演奏する。またデモテープ制作時はプログラミングも行うが、本人は「あくまでギターを気持ち良く弾く為のトラック作り。(自分には)向いていない」と語っている。外出先などでフレーズが思い浮かんでも録音したり譜面に書き残すといったことは一切しない。本人によると「忘れてしまうようなフレーズは、所詮その程度のものだったということ」であり、『GUITARHYTHM IV』のようにデモテープを一切制作していないというアルバムも存在する。そもそもギターの譜面に関しては読むことが出来ず、自分が作った楽曲を譜面に起こすことも出来ない。コードも基本的なもの以外はよく知らないという。その為、BOØWY時代初期にスタジオミュージシャンの仕事が入った時は、小さいコードブックを隠し持ってスタジオ入りしていた。『THANK YOU & GOOD BYE』など一部を除き、現在までほぼ全ての作品でセルフ・プロデュースを執っているが、これについては「僕のプロデューサーって立場はあくまでもギタリストの延長線。いいミュージシャン、いいギタリストでいる為には、ドラムもベースも歌も知らなきゃいけないっていう。初めて作った『MORAL』がまったく満足いかない仕上がりになってしまったことが、一番きっかけとして大きかった。これはスタジオの作業をもっと知らなきゃいけない、ただ演奏しただけでは結果的に作品としてのあるレベルには至らないと痛感した。それからミュージシャンとしての自分自身を大切に、色んなことをクリアしてプロデューサーと呼ばれるようになった」としている。高橋まことは布袋の音楽スタイル、プロデュース・ワークについて「一見するとルーツが見えづらいが、敢えて言うなら「ひとりミクスチャー」。あらゆるジャンルの音楽を貪欲なまでに呑み込んで、すべて自分の中で消化して布袋色に染め上げてしまう。自らのルーツ・ミュージックに立ち返ることを布袋は決してしなかった。なぜなら彼にとってのルーツ・ミュージックとは「布袋寅泰」そのものだからだ。自分自身をルーツにしようとしていたのは間違いないだろう」、「ルーツが見えづらい上にツールも多く、ギター以外の楽器も一通り何でもこなせる。レコーディング時にはかなり具体的なフレーズを要求してくることが多かった。本人がドラムも叩けるからこそであり、意思の疎通も非常にスムーズだった」と著書に記している。自身の著書『秘密』によると、父親は韓国人で、韓国にも家庭があり、母は日本での妻という立場だったとのこと。貿易商であり1年の大半を国外で過ごしていたため、日本に戻ることはほとんどなく母子家庭同然だったという。紳士かつ厳格な人物で、父親が帰国すると家族全員が正装して夕食のテーブルにつき、テーブルマナーにもうるさかったという。映画「新・仁義なき戦い」に、昌龍の役で出演を決めた理由について、「彼の生い立ちと同じく、僕も父親が韓国人で、アウトサイダーとして生きざるを得なかった」と語っている。母親は余市生まれ、ロシア(樺太)育ちの日本人とロシア人とのハーフで、日本国籍とのこと。。かつて高崎駅前にてクラブを経営していた。父親とは対照的に天真爛漫な人物で、BOØWY初期は布袋の音楽活動に対し否定的だったが、1986年に開催した初の日本武道館ワンマンライブに招いた際には終演後「あなたは絶対やると思っていたわ」と言われたというエピソードがある。妹はかつてガラパゴスのヴォーカルとして活動していた狩野環。ガラパゴスは1991年から1992年に行われた布袋のGUITARHYTHM ACTIVEツアーで前座を務めたり、布袋が同バンドの楽曲『月の流す涙』をラジオ内でカヴァーしたりと、音楽上でも交流があった。1994年のガラパゴス解散後は、新たにSUPER EGOを結成。後に同バンドのドラマーと結婚した。姪はシンガーソングライターのタグチハナ。狩野環の長女であり、2015年にデビューしている。なお布袋は「ハナ」という名前を盟友であるジーザス・ジョーンズのマイク・エドワーズの女児にセカンドネームとして贈った。当時の時代背景もあってか両親は籍を入れてはおらず、自宅の表札には2つの苗字が並んでいたという。布袋が高校3年の時に両親は離婚している。その際父親の借金を母親がすべて背負うことになり、住んでいた邸宅を引き払い四畳半アパートでの生活を余儀なくされる。幼少時代にピアノを始める。母親がハリウッド映画のサウンドトラックやアルゼンチン・タンゴを好んで聴いており、彼女からのリクエストでこれらの楽曲を弾くことも多かったという。14歳の頃、マーク・ボランのポスターを見て感銘を受け、ギターを始める。初めて買ったギターはストラトキャスタータイプで、この時の資金は母親の財布から失敬した1万円だった。幼少時代から服装には拘りを持っており、カブスカウトの制服に憧れたり、小学校高学年になると長髪にしてベルボトムのジーンズを履くような少年だった。本人曰く、当時の群馬県では中学生になると頭髪を坊主刈りにしなければならなかったと語っており、これを避けるために私服登校が可能な中高一貫制の私立校へ進学している。高校時代は真っ赤なスーツで登校したり、デヴィッド・ボウイの『アラジン・セイン』のジャケットを真似て眉毛を剃り落としたりもしていた。後に独特のギタースタイル、ビジュアルを確立した大きな要因として、自身の「人と同じことが大嫌い」という性格を挙げている。前述の通り風変わりな服装で登校したり、クラスメートがレッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどに夢中になっているのをよそに、ロキシー・ミュージックやブリジット・フォンテーヌなどいわゆる王道とは一線を画す音楽を聴き込んでいたのもその性格の現れである。プロテスタント系キリスト教主義学校の新島学園高校中退。在籍した場合、その氏名などを掲載するという方針のため、「同窓会名簿」には名前が載っている。中退したのは卒業直前の時期であり、学校側から髪型を指摘されたことが原因である。その際、教師に向けて「イエス様の方が僕より長い」と言い放ったとされ、このエピソードについて『クイズダービー』第748回(1990年7月14日放送分)の最終問題で出題された。実際には長髪にそれほど拘りがあったわけではなく、敢えて中退した翌日に髪を切ってしまった。一方、新島学園にも「生徒の個性を尊重すべきだ」と布袋を擁護した人物がいた。その人物は氷室京介や松井恒松、山田かまちの小学校時代の担任であり、後にかまちの作品を世に送り出す人である(当時、新島学園高校の美術科非常勤講師だった竹内俊雄)。BOØWY時代から現在に至るまで愛用されている、白黒の幾何学模様のフェルナンデス(後に、ネックや金属パーツなどをゾディアック・ワークス製に交換している)・テレキャスター(TEJ-HT)は、市販の数あるシグネイチャー・モデルのギターの中でも特に有名である。この模様は、布袋のトレードマークとして、BOØWY時代のステージ衣装や、ソロ活動以降の「ギタリズム・マーク」のモチーフ、公式グッズの意匠「GUITARHYTHM柄(G柄)」にも使われている。模様は、当時ESP製の一本しか持っていなかったテレキャスターをかっこよくしたいと考え、酒を呑んで酔っ払った勢いで「あっみだくじぃ〜」と口ずさみながらトイレで描いたとされている(当初は白いボディに黒ライン)。BOØWY結成後のロンドンの地下鉄の線路図の一部を描いた、という俗説もある。過去に一度盗難に遭ってしまったが、無事手もとに戻ってきている。左肩に宙を羽ばたく鳥とHEAVENという文字のタトゥーがある。これは1987年にベルリンで入れたもので、当時BOØWY解散が決定し一時は音楽業界からの引退も考えたが、最終的に「自分は天国に行くまでギターを弾き続ける」と決意した際の誓いの証とのこと。1986年1月に、歌手の山下久美子と結婚したが、1997年11月に離婚した。1999年6月に女優・歌手の今井美樹と再婚し、一人娘がいる。その後2004年、フライデーに、当時、保坂尚輝の妻であった高岡早紀との関係を写真付きで報じられマスコミを賑わせたが、今井美樹との関係が壊れることはなかった。2007年10月、パンクロック歌手で芥川賞作家の町田康に暴行し軽傷を負わせたとして、木更津簡易裁判所より傷害罪で罰金30万円の略式命令を受けた。なお、暴行事件を起こした布袋を「布袋寅泰容疑者」ではなく「布袋寅泰氏」または「布袋ギタリスト」と呼称した一部マスコミも存在した。本人は自分が全面的に悪いと非を認めている。2011年に東日本大震災で被災した宮城県南三陸町にボランティアとして訪れたことを明らかにしている。2012年8月、ロンドンへと移住。移住前にはブログ上で、長年の夢だったロックの発祥の地であるロンドンで腕試しをする旨を明かしていた。以下、テレキャスタータイプ以外でフェルナンデスブランドで製作されたギターを記す。海外および移住後のロンドンでの活動は、すべて現地時間に基づくものとする。1979年1980年1981年1982年1988年1989年1990年1991年1992年1993年1994年1995年1996年1997年1998年1999年2000年2001年2002年2003年2004年2005年2006年2007年2008年2009年2010年2011年2012年2013年2014年2015年2016年各公演のアンコール演奏曲のみ収録した期間限定販売品。規格品番の数字が公演日を表している。特記がない限り、iTunes Store、Amazon Music、mora、レコチョクなど主要プラットフォームにて配信。

出典:wikipedia

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