神社本庁(じんじゃほんちょう)は、神宮(伊勢神宮)を本宗とし、日本各地の神社を包括する宗教法人。神社本庁は神道系の宗教団体として日本で最大。約8万社ある日本の神社のうち主要なものなど7万9千社以上が加盟している。都道府県ごとに神社庁を持つ。内務省の外局であった神祇院の後継的存在であり、宗教法人法にもとづく包括宗教法人である。神社本庁の宗教法人としての規則である「神社本庁庁規」では、神社本庁の目的を、包括下の神社の管理・指導、神社神道の宣揚・神社祭祀の執行・信者(氏子)の教化育成・本宗である伊勢神宮の奉賛・神職の養成・冊子の発行頒布を通じた広報活動など、としている。1890年(明治23年)11月29日に施行された大日本帝国憲法第28条により、国民の「信教の自由」が認められると、神道も仏教、キリスト教とともに宗教団体として国家の公認を得ることになったが、一方で、神社は国家から宗教として扱われないまま国家祭祀を公的に行う位置づけとされた。1898年に「全国神職会」が結成され、全国の神社の連携が強化されることになる。1900年、社寺局から独立するかたちで、内務省社寺局が神社局と宗教局として再編され、神社と仏教が区別されることとなる。同年、全国神職会が設立される(のちに、大日本神祇会と改称し、神社本庁の前身団体の一つとなる組織)。明治末期になると、皇室祭祀関連の規定も整備され、大正に入ると全国神社の祭祀・祭式の形式も整う。昭和期に入り、1940年に神祇院が設置される。1945年10月4日に、連合国軍最高司令官総司令部が「思想、宗教、集会及言論の自由に対する制限」を撤廃し「天皇、国体及日本帝国政府に関する無制限なる討議」を認める「自由の指令」を公布する。12月15日には、「神道指令」を日本政府に命じて神祇官を廃止し、西洋で見られる緩やかな政府と宗教の分離とはかけ離れた、国家から宗教的要素を完全に分離させることを目的とする過激な内容を実施しようとした。これにより、12月28日に「宗教団体法」が廃止されるとともに、「宗教法人令」が公布され即日施行される。しかし、「神道指令」が掲げる「国家」と「宗教」の分離は非現実的で、国際的基準からも非常識であるなど、多くの問題を抱えていたために、幾度となく修正が加えられることとなる。とくに、宗教である神社神道に対して「神道指令」のような干渉を行うことは、「宗教の信仰及びその遵行を尊重しなければならない」と定めるハーグ条約違反であることは明白であった。しかし、神社神道を宗教ではないと認めると、国家と神社神道の結びつきの復活が可能となり、GHQが意図する占領政策と大きく矛盾するという問題を抱えていた。神社本庁によれば、「神道指令」の起草に関わったGHQ宗教課長のバンスもこの矛盾を熟知しており、渋川謙一によるインタビューで、神社神道への干渉について、「日本政府は神社神道は宗教ではないといっていた。したがって、神社神道に対する干渉はハーグ条約違反ではない」と非宗教性を述べる一方、「ハーグ条約といえどもすべての宗教的慣行を保護しているわけではない」などと神社神道の宗教性を示唆する矛盾した回答をしていたという。神祇院は占領軍の圧力を想定せず、神社非宗教の立場で現体制を維持出来るものと思っていたが、「神道指令」の発布と同日に廃止された。一方で、葦津珍彦は厳しい弾圧があると想定しており、皇典講究所の吉田茂、神宮奉斎会の宮川宗徳とともに打開策を探っていた。1945年10月25日、葦津の「神社制度改革に対する私見」が、大日本神祇会、皇典講究所、神宮奉斎会の関係者に提示され、民間主導により、神社界の生き残りをかけた話し合いの場がもたれる。葦津案は、「正確な情報の伝達と統一ある処理を行う全国組織の構築」、「各神社の緩やかな連合体としての神社連盟」、「この神社連盟には教義についての採決権を与えない」とする内容であった。11月7-8日に、第2回の民間三団体の合同懇親会が開催され、「三団体は合同する」、「準備事務局を神祇会館に設ける」、「合同についての原案を作成して審議会を開催する」という3点が可決された。しかし、11月13日に、一つの宗教団体のように教義採決権や傘下神社の人事権をもつとする、大日本神祇会の「神社教(仮称)教規大綱案」が、設立準備審議会に提出される。これに対し、葦津は、「教義を固定化することは神社神道の本質に反し、占領下で強力な中央集権組織を造れば占領軍の干渉に有利に働く」と主張し、大日本神祇会案に強く異議を唱える。翌14日に、葦津案を基調とした折衷案が、宮川宗徳から提出され、改めて、検討されることとなった。こうして、審議会は、葦津案を中心に神社界の組織構想を練り上げ、1946年1月23日、「全国神社の総意に基き、本宗と仰ぐ皇大神宮の許に、全国神社を含む新団体を結成し、協力一致神社本来の使命達成に邁進し、以て新日本の建設に寄与せんことを期す。」として神社本庁設立に関する声明が発せられて宗教法人神社本庁が発足し、2月3日をもって設立する。神社本庁の発足に従い、宗教法人法(宗教法人令)のもと、神社も、他の宗教と同じく宗教団体として扱われることとなった。本庁の設立の際、神宮奉斎会から10万円が神社本庁に寄付され、奉斎会の地方本部奉斎のうち「相当ノ設備ヲ有スル」(宮川による説明より)ものは神社として再発足した。たとえば東京の奉斎会本院は1946年3月に神社本庁に神社設立を申請し、東京大神宮として再発足した。1956年5月、神社信仰の基本となる指針として「敬神生活の綱領」を掲げ、氏子・崇敬者の教化・育成に努めている。また、1980年7月から「神社本庁憲章」を施行し、神社本庁の精神的統合の基本的規範を確立した。神社本庁は全国約8万社の包括宗教法人である。各神社にはそれぞれ由緒があり、信仰的にも八幡信仰、稲荷信仰などと様々であって、一つの教義を定めるのは非常に困難であった。そこで昭和55年5月21日評議員会議決を以て「神社本庁憲章」を定めた。その経緯と位置づけは前文に「今日まで重要な懸案とされてきたのは、精神的統合の紐帯として、基本的規範を確立整備することであつた。」とあり、その効果については附則に「この憲章施行の際、庁規及び従前の規程等は、この憲章に基いて定めたものとみなす。」とある。第一条は「神社本庁は、伝統を重んじ、祭祀の振興と道義の昂揚を図り、以て大御代の彌栄を祈念し、併せて四海万邦の平安に寄与する。」とある。「神社本庁憲章」以前、神社本庁の実践的精神を示すものとして、昭和31年(1956年)に制定されたのが「敬神生活の綱領」である。神社本庁には成文化された教義はないが、『神社本庁憲章の解説』によれば神社本庁は「神社本庁憲章」と「敬神生活の綱領」を以てその設立及び活動の精神としている。神社本庁は約8万社の神社包括団体である。そのため広義の「神社本庁」とは被包括神社を含めた集合体を指し、狭義の「神社本庁」とは渋谷区代々木にある事務組織を指す。神社本庁の議決機関は全国の神職・総代から選出された評議員会であり、総長以下役員もそこで選任される。戦前の監督官庁であった神祇院とは根本的に組織体質が異なる。以上の団体のほか、関係団体、指定団体がある。全国神社総代会は神社の氏子総代からなり、神社本庁内に事務局が置かれる。神社本庁の初代事務総長宮川宗徳が社長となり昭和21年2月に神社新報社を設立した。一般財団法人神道文化会も宮川の提唱で設立された。神社本庁の評議委員会が神社新報社などで開催が公示される。1969年に、神道政治連盟が神社本庁を母体として設立された。神社関係団体のうち特に神社本庁がその活動を勧奨、育成、助成するものに指定団体がある。有名な神社であっても、鎌倉宮・靖国神社・日光東照宮・伏見稲荷大社・気多大社・新熊野神社など神社本庁との被包括関係を有せず、単立宗教法人として運営される場合がある。大きな単立神社は約2000社、小さな祠等を含めると20万社の単立神社がある。神社本庁以外にも神社神道系の包括宗教法人がいくつかあり(神社本教、北海道神社協会、神社産土教、日本神宮本庁など)、これに属する神社は神社本庁の被包括関係には属さない。なお、明治神宮は別表神社であったが、2004年(平成16年)に神社本庁と被包括関係から離脱。しかし2010年(平成22年)8月23日に再び神社本庁と被包括関係になった。その他、気多大社も別表神社であったが、宮司人事における対立から訴訟の末、神社本庁から離脱し、単立神社となっている。神社本庁の関係団体に神道政治連盟がある。また、神社本庁総長の田中恒清は日本会議の副会長である。1953年の第3回参議院議員通常選挙で神社本庁は宮川宗徳を擁立したが、宮川は落選した。1966年に神社審議会は「神社本庁関係の全組織をあげて強力な推進団体を組織して、国会に代表を送る」べきだと答申した。1969年の神道政治連盟結成後は、独自候補擁立ではなく既存政党の政治家の推薦が行われた。塚田穂高によれば神道政治連盟結成後、神社本庁と神道政治連盟は自由民主党の議員を主に支援しており、堀幸雄によれば「利益代表を出すのに熱心」だった。ジェフ・キングストンによれば、神社本庁は日本遺族会など他の右派団体と共に、靖国神社を参拝する見返りに政治家に票と金を提供するロビー活動をおこなった。上杉聰は、過去に実施された日本会議のイベントの受付では、神社本庁を含む各種宗教団体別の受付窓口が設けられ、参加者を組織動員した旨を述べている。2005年(平成17年)3月17日、神社本庁は、「皇室典範に関する有識者会議」が皇位継承のあり方を検討していることを受け、「皇室典範改正に関する神社本庁の基本的な姿勢」としてまとめ、各都道府県の神社庁に送付した。また同年11月24日に有識者会議が報告書を提出したことに対し、12月2日に「皇室典範改正問題に関する神社本庁の基本見解」を発表した。その中で皇位は「一つの例外もなく男系により継承されて」いるとして、「皇室典範改正に関する神社本庁の基本的な姿勢について」で政府や有識者会議に対して男系による皇位継承の尊重を呼びかけた。2005年(平成17年)6月9日、神社本庁は内閣総理大臣の参拝等で議論を呼んだ靖国神社の諸問題に関して、神社本庁としては分祀は「神社祭祀(さいし)の本義からあり得ない」などとする基本見解を発表した。その中で、神社本庁としては、A級戦犯も含め、戦争裁判犠牲者を日本政府の一連の措置により昭和殉難者として合祀、慰霊してきた靖国神社を支持するとともに、多くの人が祭神の「分祀」の意味を誤解して神社祭祀の本義から外れた議論がなされていることを憂慮すると表明。見解の要旨は、靖国神社は日本の戦没者追悼の中心的施設である・祭神の分離という意味の「分祀」は神社祭祀の本義からありえない・首相は靖国神社参拝を継続するべきである・いわゆるA級戦犯は国会の決議とそれにかかる政府の対応により合祀されたというものである。なお、神社本庁は靖国神社崇敬奉賛会の法人会員でもある。1957年(昭和32年)8月21日に、生長の家や修養団などと合同で紀元節復活運動のための統一団体「紀元節奉祝会」を結成した。など政治的な理念も有して活動している。中国電力が建設予定の山口県上関原子力発電所予定地の一部が四代八幡宮の境内地にかかっていたが、当時の宮司林春彦が神社地の原発用地への提供に反対した。このことについて、神社本庁の代表役員らが林の解任を画策したと林は2002年に主張した。。神社本庁は同神社境内地の財産処分申請に対し「原子力発電は地球温暖化の原因となる温室効果ガスを排出しないため環境破壊に当たらない」として、四代八幡宮に対して境内地売却の財産処分を承認した。各地の神社において、神社本庁が参加する「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が憲法改正を求める署名活動を行っている。なお、神社におけるこのような活動に関しては、「神社の職務は、参拝者に気持ちよくお参りをしていただく環境を整えること。不快感を抱く人もいる改憲運動を持ち込むのは、神職の職務放棄、神社の私物化」などの、独立神社(神社本庁傘下ではない神社)関係者からの批判がある。1977年、津地鎮祭訴訟の最高裁判決(1977年7月13日大法廷判決)において、国や自治体が、社会の一般的慣習に従った儀礼などにおいて宗教と関わることが日本国憲法第20条第3項で禁止される「宗教的行為」には該当しないとする合憲判決が下される。神社本庁では、これにより占領軍による国家と宗教の「完全分離主義」が退けられ、憲法の政教分離条項の解釈が確定したとしている。また、この法理解釈により、平成の皇位継承に関する儀式・儀礼を根拠づけることが可能となるとしている。
出典:wikipedia
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