カーティス・グランダーソン・ジュニア(Curtis Granderson, Jr. , 1981年3月16日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州ブルーアイランド出身のプロ野球選手(外野手)。MLB・ニューヨーク・メッツ所属。右投左打。にイリノイ州シカゴの郊外で誕生。両親はともに教師だったためしつけに厳しく、グランダーソンは学業面である程度の成績を収めないとスポーツをさせてもらえなかった。イリノイ大学シカゴ校へ進学したグランダーソンは野球部に入部、に打率.483を記録してスカウトの注目の的となる。MLBドラフトではデトロイト・タイガースから指名を受けた。ただ「パワーに難あり」と見られていたため指名順位は3巡目(全体80位)まで落ちることとなった。ドラフト指名から1か月ほどで入団契約を交わし、SS-A級オネオンタでプロデビュー。52試合に出場し、打率.344を記録するなどの活躍でリーグMVPを受賞した。続くはAdv-A級のレイクランドへ、はAA級エリーへと昇格。AA級では123試合で打率.303・21本塁打・93打点・14盗塁という数字を記録し、タイガースのマイナー最優秀選手に選出された。AA級での活躍後、9月にメジャーへ昇格し、13日のツインズ戦でメジャーデビュー、9試合に出場してシーズンを終える。はシーズン開幕をAAA級トレドで迎え、7月中旬までマイナーリーグで過ごす。そこで15本塁打を放って7月22日にメジャーへ昇格し、6試合で打率.318を記録したが、チーム事情で再びマイナーへ降格となった。8月に再昇格してからは、9月15日にランニング本塁打、18日に5打数5安打、26日にはサヨナラ本塁打など、周囲に強い印象を残した。は開幕から1番・中堅でレギュラーに定着。159試合に出場し、19本塁打・31二塁打を放つ。この年からタイガースのコーチに就任したアンディ・バンスライクとドン・スロートの2人から指導を受けたことがよかったという。しかしアメリカンリーグ最多の174三振を喫し、打率も.260に留まったうえ盗塁も8個しか決めておらず、1番打者としての仕事をしたとは言いにくい。またこの年、チームは12年連続の負け越しを脱してリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズへ進出。しかしカージナルスとの対戦となった同シリーズでグランダーソンは打率.095とほぼ完璧に封じ込まれただけでなく、第4戦では足を滑らせて飛球を捕り損ね失点のきっかけを作るなど、苦い経験をしてシーズンを終えた。も引き続き2人から指導を受けたグランダーソンは走攻守で進歩した。打撃では打率で自身初の.300を記録したほか、二塁打・三塁打・本塁打の全てで2桁に達する「トリプル・ダブル」をオールスターゲーム前に達成。9月9日には盗塁も20に達し、「20盗塁・20二塁打・20三塁打・20本塁打(20-20-20-20クラブ)」を達成した。この記録を達成したのはフランク・シュルト()とウィリー・メイズ()に次いで、グランダーソンがメジャー史上3人目である(同年9月30日にはジミー・ロリンズも達成している)。またこの年のシーズン三塁打数23本は、にデール・ミッチェルが記録して以来、58年ぶりの記録となった。走塁でも積極性が増し、守備でも無駄な動きが減った。2月4日、5年総額3,025万ドル(6年目のは1,500万ドルのオプション)でタイガースと契約を延長。しかしシーズン開幕前のオープン戦で死球を受けて右手中指を骨折し、故障者リスト入りしたため開幕から21試合の欠場を余儀なくされた。シーズン初出場は4月23日で、これ以降は全141試合に出場。8月に6三塁打を放つなど、シーズン通算で13三塁打は2年連続でリーグ1位となった。また打率は.280と前年を下回ったが、自己最多の71四球を記録し、出塁率も.365と前年を上回った。ただ、チームの打線は長距離打者が並んでいたものの、その打線が不発だったときに機動力を使う攻撃ができず、その点ではグランダーソンの12盗塁は期待外れな成績となった。この年のオフには、グランダーソンの人柄と野球に対する情熱を見込んだバド・セリグコミッショナーからMLBの国際親善大使に任命され、中国、イタリア、南アフリカを訪問している。は、シーズン開幕前の3月に開催された国際大会・第2回ワールド・ベースボール・クラシックにアメリカ合衆国代表の一員として参加し、オールスターゲームにも初選出される。シーズンでは終始低打率に苦しみ、最終的にレギュラー定着後では最低の打率.249に終わった。一方で本塁打は自己最多の30本を放ち、2年ぶりの20盗塁も達成した。2009年12月9日、アリゾナ・ダイヤモンドバックスを交えた三角トレードによる、フィル・コーク、オースティン・ジャクソンとのトレードでニューヨーク・ヤンキースへ移籍した。のシーズンでは、4年連続となる20本塁打以上・盗塁成功率86%などの数字をマークした一方、打率.247は規定打席に到達した年度の数字としては最低、それ以外の年度を含めても自身の中で2番目に低い数字だった。8月25日には、オークランド・アスレチックス戦で記録されたメジャーリーグ史上初の1球団による1試合3満塁本塁打の一員となった。5回裏にロビンソン・カノ、6回裏にラッセル・マーティンが満塁本塁打を放ったのに続いて、8回裏にグランダーソンが満塁本塁打を放ち、記録が樹立された。シーズンでは主に2番打者としての出場ながら119打点を挙げ、自身初の打点王に輝いた。ホームランもア・リーグ2位の41本を記録するなど好成績を収め、自身2度目となるオールスターゲーム出場を果たした。シーズン終了後にはシルバースラッガー賞を受賞している。40本塁打、10三塁打、25盗塁を同時に達成したのはメジャー史上初である。はア・リーグ2位、さらにはキャリアハイとなる43本塁打を記録し、2年連続3度目となるオールスターゲーム出場を果たす。ヤンキースの選手として2年連続で40本塁打以上を達成した5人目の選手となった(過去にはベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ミッキー・マントル、ジェイソン・ジアンビ)。その一方で、キャリアワーストの打率.232、ア・リーグワースト2位の195三振を喫し、確実性に課題を残した。オフに1500万ドルの球団オプションが行使され、残留が決まった。12月にはMLBの国際親善大使として、日本と韓国を訪れた。日本では相撲部屋(荒汐部屋)を見学したり、東日本大震災の被災地である宮城県石巻市や同名取市立閖上中学校で野球教室を開催したりした。は、故障の影響で試合にほとんど出場出来ず、2005年以来8年ぶりに規定打席到達を逃したシーズンとなった。打率.229・7本塁打・15打点という成績に終わり、打率は規定打席に到達していないシーズンを含めても自己最低の数値となった。本塁打及び打点も、それぞれを1以上記録したシーズンの数値としては最低値だった。10月31日にFAとなった。2013年12月6日、ニューヨーク・メッツと4年総額6000万ドルで合意し、12月9日に球団が正式発表した。は故障なくシーズンを過ごし、155試合に出場。しかし打撃不振に陥り、打率.227・20本塁打・66打点・141三振という成績に終わった。それでも選球眼の良さを発揮し、79四球を選んで出塁率.326を記録した。ライトの守備はまずまず堅実で、1失策・守備率.996・DRS0という内容だった。センターとレフトも守ったが、DRSはいずれもマイナスだった。は157試合に出場した。バッティング面では打率.259・26本塁打・70打点・OPS0.821という成績をマーク、前年の不振から脱却して強打者らしい内容だった。抜群の選球眼も健在で、91四球は自己ベスト・出塁率.364は自己2位タイだった。走塁面では、3シーズンぶりの2ケタ盗塁となる11盗塁を決めたほか、リーグ6位の98得点を記録した。ライトの守備は大幅に進歩し、DRS + 12という素晴らしい成績を残した。は開幕から昨シーズン同様1番ないし2番打者を務めていたが、8月中旬以降は打順を転々とし、最終的には4番に落ち着いた。チームに故障者が相次ぐ中、自身は大きな離脱もなく150試合に出場し、打率は.237ながら4年振りに30本塁打をクリアした。しかし、得点圏打率は.152とチャンスではからっきしだった。守備面では昨シーズンはほぼライトしか守らなかったが、今シーズンは夏場にジェイ・ブルースが加入してからはセンターの守備に就く機会が多くなり、レフトも数試合守った。DRSは外野3ポジション合計で+ 3をマークした。打撃面では三振の多さが目に付くが、その一方で細身ながらパワーを秘めており、広いコメリカ・パークを本拠地としながらも2007年から3年連続で20本塁打以上を記録。2009年は30本塁打を達成した。タイガース首脳陣の指導で2ストライクからのアプローチに取り組み、相手投手が状況により何を仕掛けてくるかを学んだ結果、三振の数も徐々に減らしつつあったが、2009年は141三振と2007年の水準に逆戻りしてしまった。左投手を極端に苦手としており、2009年終了時点での通算成績は対右投手が打率.292、OPS.894なのに対し、対左投手は打率.210、OPS.614である。特に2009年は対左で打率.183、OPS.484と全く打てなかった。2007年には盗塁を27回試みて26回成功させた足もあるが、本人によると「打席から一塁ベースまでは3.9秒。メジャーの平均が確か4.1秒のはずだから、脚力は多少あるというぐらい」とのこと。人格面で高い評価を得ており、スポーツ・イラストレイテッド誌企画の「感じの良いメジャーリーガー」では5位にランクインした。また、ファンサービスに熱心な一面もあり、球場内外を問わずたびたびファンにサインする姿をみせる。父は小中併設校の校長、母は高校の化学教師、姉の一人が英語学の大学教授という教師一家に育ち、自身もイリノイ大を卒業してからMLB入りするなど(通常は3年修了時に中退して入るケースが多い)教育に対する志向が強い。「教育に勝る資源はないと思う」という信念を持ち、2009年には「All You Can Be:Dream It, Draw It, Become It!」、2011年には「やれることをやり切れ!-スポーツを通して学び、成長しよう-」という子供向けの啓発本を出版している。
出典:wikipedia
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