勘解由小路家(かでのこうじけ)は日本の氏族の一つ。 日本の戸籍に記載される姓では最長のものとされる。藤原氏日野流烏丸家の分家で、烏丸光広の子孫。儒道を家業とし、家禄は130石。1644年(正保元年)烏丸光広の次男資忠によって創立された。家格は名家。昭和の当主は資承、なお、資淳を養子に迎えるさい、資淳を一度武者小路実篤の養子にしてから勘解由小路家に迎え入れた。明治維新後は資生が子爵に叙せられた。雲上明鑑に、「始祖は烏丸権中納言豊光六代正二位権大納言光広の末男正三位参議資忠なり」とある。門流は近衛殿。平安京の小路名による。藤原北家白河家流では、藤原伊尹の子孫経尹-行尹と続き、行尹が勘解由小路を号したとある。同勧修寺流では、為房-為隆-光房(勘解由次官)と系図に記され、さらに子孫高清(勘解由小路)とある。また同日野氏流では、日野資長-兼光-頼資(勘解由小路)とあり、頼資の子経光-兼仲と続く嫡流は後に広橋と号した。また、同日野烏丸流では、烏丸光広-(勘解由小路)資忠と見える。南北朝が合体した明徳の頃から半世紀の間に、文献に現れた勘解由小路義重、勘解由小路右兵衛督などは、それそれ斯波氏からの一族であった。陰陽道の宗家のひとつ。天文道を伝える安倍氏に対し、暦道を伝えるのが賀茂氏である。本来、賀茂氏は安倍氏の師匠筋であり、古代にあっては安倍氏より優位にあった。室町時代に賀茂在方の子在貞・在長(在豊・在成とも)が勘解由小路を称した。室町時代の終わり在富の没後には家業の暦道を安倍氏に奪われて衰退し、戦国時代には断絶したとされる。一説によれば、在富の嫡男である在昌がキリスト教の洗礼を受けた事を知った在富がこれを廃嫡し、続いて甥の在種を養子とするが、後に在富自身がこれを暗殺して自ら家名を絶ったとも言われている。江戸時代に幸徳井家(賀茂氏の庶流である)が再興し、土御門家(安倍氏のこと)とともに陰陽道の管理を任されたが、土御門家との争いに負け、再び衰退した。(在長流)
出典:wikipedia
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