加賀(かが)は、東京都足立区の地名。住居表示実施済み。現行行政地名は加賀一丁目及び二丁目。郵便番号は123-0861。足立区の北西部西端に位置し、北は入谷、東は皿沼、南は鹿浜、西は首都高速道路の高架橋を境に埼玉県川口市東領家と接する。町域は都市計画道路補助第251号線で南北に分かれ、南側が加賀一丁目、北側が加賀二丁目となる。町域面積は加賀二丁目の方が大きく、区立中学校や住区センターなどの公共施設も集中している。また首都高速川口線の加賀出入口が町域内にあり、隣接する皿沼の流通センターとともに、足立区と埼玉県・東北地方を結ぶ物流・流通の経過拠点となっている。1975年(昭和50年)の住居表示実施により町域が「加賀」と「皿沼」に分かれたが、当該地区の大部分は「加賀皿沼町」という一つの町域であり、加賀と皿沼の両者の関係は歴史的にも地域的にも極めて密接なものであった。なお、旧・加賀皿沼町には多数の飛地があり、隣の北鹿浜町との町界は複雑に入り組んでいた。かつて加賀は、隣接する皿沼とともに鹿浜村の中の小字であった。当初はそれぞれが「加々」と「皿沼」というように別々の小字であったが、後に「加々皿沼」と一つになり、さらに元禄時代頃までに再び「加々」と「皿沼」というように二つに分かれたという。江戸幕府が崩壊して明治時代となると、加々皿沼は武蔵知県事の管轄となり、後に小菅県の所管となった。1871年(明治4年)の廃藩置県の実施で東京府が設置されると、加々皿沼は「東京府南足立郡加々皿沼村」として公式に村と称した。1889年(明治22年)に周辺8か村を合併して江北村が誕生すると、加々皿沼は江北村の大字となり、約半世紀間の江北村時代を経る。1932年(昭和7年)の東京府構成5郡80か町村の東京市編入で南足立郡が足立区へと解体再編されると、大字加々皿沼は「東京都足立区加賀皿沼町」として発足した。しかし行政的な立場はめまぐるしく変遷しても、その町並みと人々の暮らしぶりは江戸時代以来変わることなく続き、その変化は1960年代に始まる土地区画整理事業の実施を待つこととなる。1975年(昭和50年)7月1日の住居表示実施により、加賀皿沼町、北鹿浜町、北堀之内町の各一部の区域をもって加賀一丁目が、また加賀皿沼町と北鹿浜町の各一部の区域をもって加賀二丁目が成立した。それまで足立区西部に広がる鉄道空白地帯の一角にあったが、2008年3月30日に日暮里・舎人ライナーが開業し、近隣に駅が開設された。「加賀」の由来については諸説あるが、その中の一つは石川県南部の旧国名である「加賀国」から移住した人々が開拓に携わったというものがある。また、一方で「カガ」の音の由来は「芝原・草原」を意味するものであり、かつてこの地域一帯が芝原ないしは草原であったのではないかとも考えられている。江戸時代には、隣接する皿沼と合わせて「加々皿沼」と呼ばれる鹿浜村の中の小字であった。
出典:wikipedia
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