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萩尾望都

萩尾 望都(はぎお もと、本名同じ、女性、1949年5月12日 - )は、日本の漫画家。女子美術大学客員教授。福岡県大牟田市生まれ。埼玉県在住。血液型はO型。代表作は『ポーの一族』、『トーマの心臓』、『11人いる!』、『残酷な神が支配する』、『バルバラ異界』など。作品のジャンルはSF・ファンタジー・ミステリー・ラブコメディー・バレエもの・心理サスペンスものなど幅広い分野にわたり、竹宮惠子・大島弓子らとともに「花の24年組」と呼ばれ、中でもその代表格、さらには「少女漫画の神様」とも評せられている。その作品は文学的あるいは文学を超えているとも言われ、文化人たちが多く批評の対象としている。2012年春に少女漫画家では初となる紫綬褒章を受章した。1949年、炭鉱町である大牟田市で生まれ、4人兄弟の次女(姉・妹・弟)として育つ。「望都」は本名で、両親がそれぞれの思いを持って名付けられた。名前の由来には諸説がある。2歳で絵を描き、4歳で漫画や本を読み始めるが、教育熱心な両親により、漫画を読むことを禁止されていた。幼稚園では時間の許す限り絵を描き、小学校では3年生のころ、彼女の絵の才能を伸ばそうとした両親の勧めで絵の塾に通い油絵を学ぶ。小学校2年のときに学級文庫ができ、『ヘレンケラー物語』や『アルセーヌ・ルパン』、『青い鳥』、『不思議の国のアリス』などを夢中になって何度も読み、また図書館に入り浸りギリシャ神話や世界名作全集、児童向けのSFシリーズなどを読んでいた。さらに、親戚の本屋に遊びに行っては漫画を読み、模写していた。中学入学後、漫画を描く友人、原田千代子(後の漫画家・はらだ蘭)と知り合い、漫画を描くための知識や漫画家になるためには作品を投稿する必要があることを知り、2人で貸本雑誌などに投稿した。中学2年生のときに大阪府吹田市に引っ越すが、その後も原田との文通は続く。高校2年生のときに手塚治虫の『新選組』に強く感銘を受け、本気で漫画家を志し、高校3年生のときに大牟田に戻ると、原田の紹介で漫画同人誌「キーロックス」に同人漫画家として参加する。高校卒業後も地元のデザイン専門学校で学びながら10作ほど投稿し、そのうちの1作『ミニレディが恋をしたら』(ペンネームは「萩尾望東」)で『別冊マーガレット』(集英社)1968年5月号の「少女まんがスクール」にて金賞を受賞するが、入賞作は掲載されなかった。翌1969年、休暇で上京した際に手塚プロのアシスタントをしていた原田を訪問し、そこで初めて手塚治虫と出会う。また、上京の際には原田と岡田史子を訪ね、同郷の漫画家、平田真貴子のつてで講談社に持ち込みをした。そこで「何か短い作品を」と言われ、忘れられないうちにと2週間で20数枚の作品を仕上げ提出。その作品『ルルとミミ』が『なかよし』夏休み増刊号に掲載されてデビューした。同年10月頃上京。竹宮惠子と共同アパートで生活し、後に24年組と呼ばれることとなる漫画家たちと切磋琢磨(せっさたくま)の日々を送るが、このときに増山法恵から様々な文化的な知識を吸収する。その後、描きたいSFをテーマにした作品が採用されない時期が2年ほど続くが、竹宮に伴われ小学館へネームを持ち込んだ際に編集者の山本順也に可能性を認められ、「自由にわがままに思い切り描かせたい」という方針のもと、本領を発揮するようになる。代表作『ポーの一族』は、「永遠にこどもであるこどもをかきたい」との発想から、石ノ森章太郎の『きりとばらとほしと』の吸血鬼の設定の一部をヒントに構想を思いついたものだが、長編連載をやるには早すぎると編集から「待った」がかかったため、1972年、「すきとおった銀の髪」などの短編を小出しに描き、そんなにやりたいのならとようやく編集から了解が出て、同年8月から翌1973年6月にかけて当初の構想であった3部作(「ポーの一族」、「メリーベルと銀のばら」、「小鳥の巣」)を連載した。この時期のもうひとつの代表作『トーマの心臓』は、『悲しみの天使』というフランス映画を見に行ったところ、それがバッドエンドであったために萩尾は主人公に同情し、「救いのある話を」と着手したもので、1974年4月から連載を開始したが、初回の読者アンケートが最下位だったため、当時の編集長である飯田から打ち切りを宣告された。しかし、直後に単行本化された『ポーの一族』の初版3万部が3日で完売、『トーマの心臓』の評判も徐々に上がり、「もう少しで終わりになるから」と萩尾がかわしているうちに連載は33回まで続くこととなった。その後、単行本の人気により編集部の強い要請を受けて1974年12月『ポーの一族』を「エヴァンズの遺書」で再開、1976年5月に「エディス」で完結したが、その間に『トーマの心臓』の暗いイメージを一掃するため長編ラブコメディー『この娘うります!』を連載するとともに、念願であったSF作品『11人いる!』を連載し、その後はレイ・ブラッドベリ原作シリーズ(後に作品集『ウは宇宙船のウ』として単行本化)、『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍原作)、『スター・レッド』と矢継ぎばやにSF作品を連載する。1976年、『ポーの一族』『11人いる!』で第21回小学館漫画賞を受賞する。一方、1977年に定年になった父親を代表として会社「望都プロダクション」を作ったが、両親との不和が高じて大げんかし、2年後に会社をつぶす。親との関係を見つめるため心理学を勉強し始め、内なる親から解き放たれるために、1980年に親殺しをテーマにした『メッシュ』の連載を開始。この時期のSF作品に『銀の三角』、『モザイク・ラセン』、『マージナル』などの長編作品のほか、「A-A'」、「X+Y」などの短編作品がある。1982年の年末に、モスクワ郊外で乗っていた観光バスとトラックが正面衝突した事故で重傷を負う。1985年ごろから舞台演劇やバレエへの関心が強まり、『半神』を野田秀樹と共作で脚本を手がけ舞台化した一方、『フラワー・フェスティバル』、『青い鳥』、『海賊と姫君』などのバレエものを描く。『スター・レッド』(1980年)、『銀の三角』(1983年)、「X+Y」(1985年)で、それぞれ星雲賞コミック部門を受賞する。80年代から引き続き『ローマへの道』や『感謝知らずの男』などのバレエものを描くとともに、1992年には厳格だった母親との対立を基にした『イグアナの娘』を発表し、さらに同年、サイコ・サスペンス長編作品『残酷な神が支配する』の連載を開始する。この時期のSF作品には『海のアリア』、『あぶない丘の家』がある。1997年、『残酷な神が支配する』で第1回手塚治虫文化賞マンガ優秀賞を受賞する。『残酷な神が支配する』終了後、1年間の休載後、2002年、SF作品『バルバラ異界』の連載を開始する。『バルバラ異界』終了後、『ここではない★どこか』シリーズや『あぶな坂HOTEL』、『レオくん』、田中アコ原作による『菱川さんと猫』(ゲバラシリーズ)などを連載する。2006年、『バルバラ異界』で第27回日本SF大賞を受賞する。2011年、引退を考え短編数編でフェイドアウトする予定だったが、東日本大震災で終末を表すものは止められ描けなくなり、原発事故から『なのはな』と放射性物質を擬人化した原発3部作、『福島ドライヴ』を発表するとともに、現代社会を厭い歴史漫画『王妃マルゴ』を開始、引退を延期する。また、小松左京の『お召し』を原案とする『AWAY-アウェイ』を連載する。2016年には「ハギオ モト」名義による『天使かもしれない』で漫画原作を初めて担当する(作画は波多野裕が担当)。また、連載終了から40年ぶりに『ポーの一族』の新作を発表する。2011年から女子美術大学芸術学部アート・デザイン表現学科メディア表現領域客員教授に就任。2012年春、少女漫画家としては初の紫綬褒章を受章する。2013年、単行本『なのはな』および作者の全作品で第12回センス・オブ・ジェンダー賞生涯功労賞を受賞する。日本SF大賞の選考委員を第14回(1993年)から第17回(1997年)までおよび第28回(2007年)から第30回(2009年)まで、手塚治虫文化賞選考委員を第7回(2003年)から第12回(2008年)まで務めた。また、2008年秋より、『月刊アフタヌーン』の漫画賞「四季賞」の選考委員。日本ファンタジーノベル大賞の選考委員に第23回(2011年)から就任。ゆきのまち幻想文学賞の審査員も務める。萩尾から影響を受けたと語る人物を記す。

出典:wikipedia

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