フィリピン航空434便爆破事件(フィリピンこうくう434びんばくはじけん、)とは、1994年(平成6年)に発生した運航中の旅客機を利用した航空テロ。このテロは国際的テロリスト集団「アルカーイダ」が1995年1月21日に決行を予定していた、ボジンカ計画と呼ばれる航空機爆破計画の予行演習として行われた。日本の領空附近で発生し、日本人の乗客1名が死亡した。1994年12月11日、世界貿易センター爆破事件の実行犯でもあったアルカーイダのラムジ・ユセフは、マニラから搭乗すると、膝下に隠して持ち込んだ爆弾を機内のトイレで組み立て、座席下のライフジャケットの位置に爆弾を仕掛けた。この間、ユセフが頻繁に席を換えるのが客室乗務員に目撃されている。ユセフはセブで途中降機した。成田空港まで約2時間で到着する予定であった日本時間の午前11時43分、沖縄県の南大東島附近上空31,000フィート(およそ9,000メートル)を巡航中、突如爆弾が炸裂し、その座席に座っていた農機具メーカー社員(日本人男性・当時24歳)が即死、男性の周囲の座席に座っていた乗客10名も負傷した。客室乗務員は死亡した男性に毛布をかぶせたが、爆発により客室の床に0.2平方メートルの穴が開いていた。434便は1時間後に沖縄の那覇空港に緊急着陸した。床の操縦系統に損傷を受けていたために方向舵操作が困難であったが、エンジン出力をコントロールすることで旋回を行い、無事に着陸した。爆破された座席は26Kであったが、この位置はフィリピン航空の機内レイアウトではボーイング747の胴体燃料タンクの真上であった。犯人は燃料タンクを爆破し、機体を空中爆発させることで多くの乗客の生命を奪うつもりであったと考えられる。しかしながら、爆弾が仕掛けられたボーイング747型機は特別仕様のため、タンクは26Kよりも1列分後ろにずれて取り付けられており、26Kの座席下はドライタンク(燃料を充填していないタンク)となっていた。そのため、燃料に引火して空中爆発するという最悪の事態は避けられた。また、男性が26Kに座っていなければ、外壁が破壊されるなど、被害が大きくなっていたという。爆弾は腕時計を使った時限爆弾であり、爆弾に使用されたニトログリセリンはコンタクトレンズの洗浄液に偽装され持ち込まれた。当時は空港のセキュリティチェックは金属探知機の設置程度であった。爆発はテロリストによって引き起こされたものに間違いなく、犯行を認める電話がAP通信マニラ支局にあった。背景はすぐには判明しなかったが、フィリピン警察は爆弾に使われたバッテリーを手がかりに犯行グループを追い詰め、マニラにあったアルカーイダ系グループのアジトを1995年1月6日の夜から翌朝にかけて急襲、ボジンカ計画とよばれる同時多発テロ計画が発見されたため、発覚した。また434便事件の首謀者・ユセフも1ヵ月後にパキスタンのイスラマバードのゲストハウスに潜伏しているところをアメリカとパキスタンの諜報機関(ISI)によって逮捕された。ボジンカ計画とは、成田、ソウル、台北、香港、バンコク、シンガポール、マニラから11機のアメリカ合衆国の航空会社の旅客機を爆破するというものであった。434便に仕掛けられた爆弾は身体検査を潜り抜けられるかという予行演習であり、この計画で使用する予定の爆弾の10分の1の威力であったという。この恐ろしい同時多発テロこそ防いだものの、このテロを計画したアルカイーダは、当時はまだ欧米によく知られていない過激派テロ組織であった。この事件でアメリカ合衆国連邦政府、特に諜報機関や連邦捜査局がアルカイーダの捜査に本格的に乗り出して厳しく監視していたとすれば、2001年のアメリカ同時多発テロは防げたかもしれないという専門家の意見がある。フィリピン航空434便は、運航区間をセブ - 成田間に変え、また運航機種がエアバスA330に変更され2013年現在も運行されている。またマニラ - 東京間の便名は432便となった。爆破事件のあったボーイング747-283B(EI-BWF)はその後、貨物用に改造され、2007年まで使われた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。