ピー・ウィー・リース(Harold Henry "Pee Wee" Reese, 1918年7月23日 - 1999年8月14日)は、アメリカ合衆国・ケンタッキー州出身の元プロ野球選手(遊撃手)。右投右打。愛称の"Pee Wee"は、子供の頃ビー玉遊びが上手かったことに由来するという。1950年代のブルックリン・ドジャースで、ジャッキー・ロビンソンと強固な二遊間を形成していた。1938年にアマチュアとしてピッツバーグ・パイレーツと契約、翌年レッドソックスを経てブルックリン・ドジャースに入団する。翌1940年にメジャーリーグに昇格。84試合に出場し打率.270をマーク、遊撃手のレギュラーの座を得る。1941年には自身初めてのワールドシリーズに出場。1942年のシーズン後、3年間海軍に従軍しチームを離れる。1946年終戦と共に現役復帰、リースはチームのキャプテンとしてチームを牽引する立場となる。1948年からは、前年に入団したジャッキー・ロビンソンとの二遊間コンビを形成し、毎年90以上の併殺をとるなど、守備面での活躍が目立った。また1949年には132得点を挙げてリーグ得点王、1952年は30盗塁で盗塁王を獲得した。1952年5月21日の試合では1イニング3出塁を達成、ナショナルリーグではこれが20世紀唯一の記録となった。俊足巧打でありながら100四球を二度クリアするなど選球眼が鋭く、四死球が多かった。ワールドシリーズは1953年までに5度出場しているが、5度ともニューヨーク・ヤンキースの前にドジャースは敗退。初めてヤンキースを破ってワールドシリーズを制したのは2年後の1955年、6度目の出場の時であった。1956年には7度目のリーグ制覇と共にルー・ゲーリッグ賞を受賞、ドジャースがロサンゼルスに移転した1958年まで現役を続けた。リースは当時のチームキャプテンとして、ジャッキー・ロビンソンのメジャーリーグでの成功に一役買っている。幼い頃から間近で人種差別を見てきたこともあり、ロビンソンにも礼儀正しく振る舞ったという。彼はロビンソンの入団直前、他の所属選手から出ていた入団拒否の嘆願書への署名を拒否する。1947年にロビンソンが入団すると、リースはチームメイトの前で真っ先にロビンソンと握手をして見せた。また、遠征先の球場でロビンソンが誹謗中傷を受けていると、リースは守備時にロビンソンに歩み寄り、黙って肩を組んで観客席を見回した。この光景を目の当たりして観客の誹謗中傷は徐々に減っていったという。後日ロビンソンはリースについて「彼は何度も自分を助けてくれた。しかし彼はそのことを自分の手柄にしようとはしなかった。」と、リースの人となりを語っている。1948年にロビンソンが二塁手のレギュラーに定着すると、彼らはロビンソンが引退する1956年までドジャースの二遊間を形成し、チームのリーグ制覇を支えた。現役引退後、リースは1960年から1965年までディジー・ディーンと共にCBSテレビで、また1966年から1968年まではNBCで野球実況解説を務めていた。NBCのラジオ放送で何試合かワールドシリーズの実況を行っている。1984年、ベテランズ委員会がアメリカ野球殿堂入り選手に選出した。1999年、ケンタッキー州ルイビルで死去。彼の背番号『1』は、ドジャースの永久欠番になっている。後年、彼とロビンソンの関係を元に「チームメイト」という題の児童書が出版されている(ISBN 0-15-200603-6)。
出典:wikipedia
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