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エルト・エ・カッソ

エルト・エ・カッソ()は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ポルデノーネ県にある、人口約400人の基礎自治体(コムーネ)である。ポルデノーネ県の西北部、ヴァイオント谷に位置する。ベッルーノから北東へ約20km、県都ポルデノーネから北北西へ約41km、州都トリエステから北西へ約129kmの距離にある。フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の最西端であり、コムーネ西側の山々はヴェネト州との境界となっている。隣接するコムーネは以下の通り。BLはベッルーノ県(ヴェネト州)所属。ヴァイオント谷を形成するヴァイオント川は、狭い峡谷を経て西のピアーヴェ川に注いでおり、この峡谷を堰きとめてヴァイオント・ダムが作られていた。ヴァイオント湖はダム湖の名残りである。谷は標高2000mを越える高山に囲まれており、東西に走る国道SS251が、東にサントズヴァルド峠(、827m)を越えてチモラーイス、西にピアーヴェ川沿いのロンガローネとを結んでいる。エルト・エ・カッソのコムーネはその名の通り、東部にあるエルト()と、西部にあるカッソ()という2つの分離集落(フラツィオーネ)からなる。二つの地区の中心集落はいずれもヴァイオント川の北側にあり、村の役場はエルトに置かれている。エルトとカッソでは使われる言葉にも違いがあり、東のエルトではラディン語の方言が、西のカッソではベッルーノと同じヴェネト語の方言が話されていた。エルトは、現地エルトの方言では と呼ばれていた。カッソは、現地のカッソ方言では と呼ばれるが、エルトの方言では などの名で呼ばれ、古くは などとも記録された。エルトにはローマ時代から人が暮らすようになったのが文書で確認でき、8世紀にはセスト・アル・レーゲナの領域に含まれた。カッソの集落ができたのはそれよりも新しく、11世紀のことである。1950年代まで、この地の産業は伝統的な農業と、ささやかな交易によって成り立っていた。1950年代の終わり、アドリア電力会社(SADE)が、カッソの集落の下に巨大ダムを建設し、ヴァイオント谷を貯水池とする事業を行った。1960年、世界最大の高さ(堤高262m)を持つヴァイオント・ダムが竣工した。しかし、ダムの完成後しばしば地滑りが発生した。1963年10月9日、集落の対岸にあるトック山が大規模な地滑りを起こし、ダム湖に発生した津波が周辺の町や村を襲った。これにより、コムーネのダム湖南岸にあったピネダ(Pineda)、プラダ(Prada)、北岸にあったスペッセ(Spesse)、サン・マルティーノ(San Martino)などといった集落が破壊され、中心集落であるエルトとカッソの一部も打撃を受けた。ヴァイオントダム災害は、全体で2000人以上の犠牲が出たが、エルト・エ・カッソのコムーネは、347人の犠牲者を出した。災害発生後3日以内に、この村の人々は安全のために避難をし、ヴァイオント谷は3年間無人の谷となった。この間、一部の村人はマニアーゴに定住した。ヴァイオント谷の人々が移り住んだこの地区は、1971年にヴァイオントという独立のコムーネになった。残る人々は、避難から3年後、村への立ち入りが禁止されていたにもかかわらず帰還し、エルトとカッソの集落を復興した。1976年には、国家モニュメント(Monumento nazionale)として指定された。近年は "EcoMuseo Vajont: continuità di vita" を謳い、エコツーリズムの拠点となっている。ジロ・デ・イタリア 2013では、ヴァイオントダムの事故から50周年を記念し、第11ステージのゴールにエルト・エ・カッソを、翌日の第12ステージのスタートにロンガローネを組み込んだ。国立統計研究所(ISTAT)によれば、2001年時点での居住地区()別の人口は以下の通り。

出典:wikipedia

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