サッカーバスク代表(バスク語:Euskal Selekzio)は、スペイン、バスク地域におけるサッカーの代表チームである。バスクサッカー連盟によって組織されている。選手はバスク自治州、ナバーラ州、フランス領バスクから選出される。バスクサッカー連盟は国際サッカー連盟(FIFA)や欧州サッカー連盟(UEFA)に加盟していないため、FIFAワールドカップやUEFA欧州選手権に参加することはできない。1915年にはスペイン北部(バスク自治州とカンタブリア州)出身選手が集められた「スペイン北部選抜」(Team North)が組織された。マドリードで開催された大会ではカタルーニャ選抜を1-0で破り、スペイン中部選抜と引き分けた。1916年5月、北部選抜はFCバルセロナと2度対戦し、アウェーでは3-1で、ホームでは5-0で勝利した。1922年、カンタブリア州側が北部連盟からビスカヤ連盟への改名を拒否したため、バスク自治州とカンタブリア州はそれぞれ単独の選抜チームを結成した。1930年と1931年、バスク地域の呼び名のひとつでもである「バスコニア」(Vasconia)というチーム名称で、カタルーニャ選抜と2試合を戦った。アウェーのムンジュイックでは1-0で勝利し、ホームのビルバオでは3-2で勝利した。初代レンダカリ(バスク自治州政府首班)であるホセ・アントニオ・アギーレは、かつてアスレティック・ビルバオの選手だった。スペイン内戦中の1937年、アギーレは軍事資金集めのためにバスク選抜を組織し、以下の選手が選出された。バスク選抜は海外遠征でも資金集めをもくろみ、フランスを皮切りに東欧・北欧を転戦した。1937年4月にはパリのパルク・デ・プランスでフランスのクラブと2試合を戦い、フランス王者のラシン・パリには3-0で勝利し、オリンピック・マルセイユには5-1で勝利した。初敗北は2-3で敗れたチェコスロバキア代表戦だった。FCロコモティフ・モスクワ(当時ソビエト連邦、現ロシア、5-1)、マルセイユ(5-2と1-3)、チェコスロバキア代表(1-2)、シレジア選抜(現在のポーランドやチェコにあたる地域、5-4)、ロコモティフ・モスクワ(当時ソビエト連邦、現ロシア、5-0)、FCディナモ・モスクワ(当時ソビエト連邦、現ロシア、1-0)、FCディナモ・レニングラード(当時ソビエト連邦、現ロシア、2-2)、FCディナモ・キエフ(当時ソビエト連邦、現ウクライナ、3-1)、FCディナモ・トビリシ(当時ソビエト連邦、現ジョージア、2-0)、グルジア代表(3-1)、FCスパルタク・モスクワ(当時ソビエト連邦、現ロシア、6-2)、ディナモ・モスクワ(7-4)、FCディナモ・ミンスク(当時ソビエト連邦、現ベラルーシ、6-1)、ノルウェー代表(3-1)、ノルウェー労働者選抜(3-2)などと戦い、デンマーク代表には11-1で大勝した。同年6月にビルバオがフランコ軍に占領されると、バスク選抜は大西洋を渡ってメキシコを訪れ、17試合を戦って13勝を挙げた。さらにキューバではフヴェントゥ・アストゥリアーナ戦(4-4)を除く全試合に勝利した。CDエウスカディ(Club Deportivo Euzkadi)という名称でメキシコのアマチュアリーグに参加し、17試合で13勝1分3敗の成績を挙げた。1938-39シーズンのメキシコ・アマチュアリーグにはCDエウスカディの他にも、レアル・クルブ・エスパーニャとアストゥリアスFCというイベリア半島からの移民に由来する2チームが参加している。バスク選抜のウェブサイトではCDエウスカディが優勝としているが、メキシコサッカー連盟のウェブサイトではアストゥリアスFCが優勝としている。スペイン内戦が終結するとチームは解体され、各々の選手には10,000ペセタの報奨金が渡された。何人かの選手はアメリカ大陸に残り、ラテンアメリカのクラブでプレーし続けた。スペイン内戦終結後、フランコ独裁時代のスペインにおいてバスク選抜は一切の活動を行なわなかった。1975年にフランコが死去し、スペインが立憲君主制国家に転換すると、1979年8月16日、エウスカディという名称のバスク選抜は1939年以来初めて組織されて試合を行ない、サン・マメスで行なわれたリーグ・オブ・アイルランド(アイルランド共和国リーグ)選抜戦に4-1で勝利した。スペイン政府が「バスク地域ではバスク代表公式歌を歌わないように」要求したことで、試合後に議論が起こった。この試合ではホセ・アンヘル・イリバルがキャプテンを務め、1930年代に活躍したホセ・イララゴッリがキックオフを務めた。この試合はバスク社会に大きな影響を与える文化イベントのひとつとして行なわれ、Sustraiakが組織した「Bai Euskarari」キャンペーンの一部分だった。この1ヶ月後にはサン・セバスティアンのエスタディオ・デ・アトーチャでブルガリア代表と戦って4-0で勝利し、1980年にはハンガリー代表に1-5で敗れた。それ以来2012年末までに25試合を戦い、カメルーン代表戦、ウェールズ代表戦、チュニジア代表戦の3敗しかしていない。2000年代に行なわれた重要な試合としては、カメルーン代表戦(2005年、0-1)、ウェールズ代表戦(2006年、0-1)、セルビア代表戦(2006年、4-0)、カタルーニャ代表戦(2006年、2-2)などが挙げられる。スペイン内戦中にスペイン国外で行なわれた最後の試合は、1938年6月20日にハバナで行なわれたキューバ代表戦(6-0)だった。これ以後は69年間もスペイン国外では試合を行なわなかったが、2007年6月20日にベネズエラのサン・クリストバルでベネズエラ代表と戦って4-3で勝利した。エウスカル・エリアという名称に変更されてから初の試合は2007年12月29日であり、サン・マメスで行なわれたカタルーニャ選抜との親善試合は1-1に終わった。2008-09シーズンのクリスマス休暇にも親善試合が予定されており、バスクサッカー連盟は以前の名称であるエウスカル・セレクシオア(バスク選抜)という名称への変更を要望したが、レンダカリ(バスク自治州政府首班)でありバスク民族主義党(PNV-EAJ)を率いるフアン・ホセ・イバレチェに拒否された。多くのバスク人サッカー選手は、「エウスカル・エリアという名称でない限りプレーしない」という声明文に署名した。この名称変更論争はスポーツの域を超えてバスク地域に影響を与え、各政党のマニフェストにおいては、バスク民族主義党、スペイン社会労働党(PSOE)、国民党(PP)などは名称変更反対の立場を取り、EA、統一左翼(スペイン共産党などを中心とする政党連合)、バスク民族主義行動党などは名称変更賛成の立場を取った。 結局、2009年にエウスカル・セレクシオアという名称に変更することで意見の一致を得たが、協会と選手間の意見の相違などから、イラン代表との間で計画されていた試合は結局行なわれなかった。2010年、選手と連盟の間では合意に至っていなかったが、選手側は12月29日にサン・マメスでベネズエラ代表と試合を行なうことで合意に達した。バスク選抜最多出場を誇るホセバ・エチェベリア(元アスレティック・ビルバオ)にバスクサッカー連盟から金色の記章が贈られ、エチェベリアはキックオフの役目を務めた。1979年に復活してからの試合一覧である。2012年12月29日のボリビアとの親善試合に招集された選手のリストである。
出典:wikipedia
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