女中(じょちゅう)=別読:めちゅうとは、家庭・旅館・料亭などにおいて、住み込みで働く女性の、日本国内における歴史的呼称である。近世の日本では、宮中、武家屋敷や商家に住み込みの形で雇用され、接客や炊事などを行う女性の事を女中と呼んだ。特に接客や、雇用者夫妻の身の回りの世話に関わる女性が上女中(かみじょちゅう)と呼ばれ、炊事や掃除などを行い、水回りを担当する下女中(しもじょちゅう、あるいは下女)とは明確に区別された。上女中は下女中よりも上級の職であり、待遇が全く異なっていた。下女は一般的に上使い、仲働き、端下などと分類され、出自によって職制に違いが見られた。商家や上層農家の娘などが、本家や豪商のもとへ数年間奉公に出る際に、上女中として仕える習わし(行儀見習い)があり、結婚前の女性に対する礼儀作法や家事の見習いという位置づけがなされていた。雇用者夫妻の身の回りの世話をはじめ、外出のお伴、子弟の養育、仏壇回りや上座敷の掃除などを担い、使いに出る際、帰宅した際には雇用者夫妻に口上を述べた。また、雇用者宅を訪ねる客人への接待を通じて、物言いや挨拶の仕方を会得しつつ、人物を見る目を養ったとされる。並行して、裁縫、生け花、お茶などの女性としてのたしなみを身につけた。上女中を経験した女性の多くは、武家や商家の妻に納まっている。当時の日本では身分制度が確立されていたために、女中と雇用者夫妻との間には単なる契約関係を越えた主従関係も見られた。安政3年(1856年)に制定された、外村与左衛門家の家訓『作法記』によると、「本家、上女中在留分、別宅の娘を召仕え申すべきこと、但し、納まり方も別家の内を見立て差配いたすべきこと」(本家では別家の娘を上女中として採用し、上女中を経た娘の嫁ぎ先は他の別家から世話するように)という記述があり、雇用者夫妻がその後の縁を取り持つこともあったとみられる。江戸中期には江戸の町人階級の経済的発展により、近郊農村出身の女性を雇い入れる地盤が出来上がっていた。下男、下女ともに、請け宿(口入れ屋、他人宿とも)の仲介で、毎年3月4日の「出替りの日」に奉公先に就職した。奉公の条件は三食付き、着衣貸与で年に2両ほどの給金であった。1年契約の年季奉公であったが、働きが真面目であったり主人のお気に入りになったりすると、次の年も引き続いて奉公することがあり、「重年(ちょうねん)」や「居なり」と言った。明治時代以降、中流家庭の増加によって女中の雇用は広がり、それとともに上女中、下女中の区別は薄れて、家事全般を執り行う労働者を女中と呼ぶようになった。また、女中の位置づけについても家事見習いから、下層階級子女(主に小作人の娘など)の雇用先という性格が強まっていった。20世紀も1950年代後半頃に差し掛かると、女性の権利意識向上、就学率の上昇などに伴い、こうした奉公人的性格を持つ女中の担い手は徐々に減少していった。代わって明確な雇用契約に基づくお手伝いさん(家政婦)と呼ばれる類似の職業が一般的になっていった。女中という呼称は廃れる傾向にあるが、その後も和風旅館や料亭などにおいて接客を行う(必ずしも住み込みとは限らない)女性を、女中と称することがある。これらの職業に対しては、仲居という呼称がより一般的に用いられている。
出典:wikipedia
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