蒲生 賢秀(がもう かたひで)は、戦国時代の武将。近江日野城主。天文3年(1534年)、六角氏の重臣・蒲生定秀の長男として生まれる。母は同じく六角氏の重臣馬淵氏の女。主君である六角義賢より偏諱を賜り、賢秀と名乗った。父と共に六角氏に仕え、観音寺騒動が発生すると父・定秀とともにその収拾に尽力し、永禄10年(1567年)に制定された分国法・『六角氏式目』に父とともに連署している。永禄11年(1568年)、義賢と織田信長による観音寺城の戦いでは、賢秀は柴田勝家と蜂屋頼隆等に攻められるが、これを堅守した。しかし、義賢は信長に敗北し、六角家は滅亡する。賢秀は敗北を聞いてもなお1千の兵で日野城に籠もり、抵抗する様子を見せていた。しかし、賢秀の妹を妻としていた織田家の部将・神戸具盛が単身日野城に乗り込んで説得した結果、賢秀は降伏し、賢秀は嫡男・鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として差し出して信長の家臣となり、柴田勝家の与力となる。信長は賢秀・鶴千代父子を気に入り、鶴千代に娘の相応院を嫁がせて娘婿に迎えている。後に信長包囲網が敷かれると六角氏から誘われたこともあったが、断固断って織田家の部将として戦い、天正元年(1573年)4月には旧主・六角義治を鯰江城に攻めている。天正7年(1579年)7月、賢秀は曾祖父の蒲生貞秀以後の一族38人の供養を日野信楽院で行った。柴田勝家の北陸移封後は近江に残り独立した軍団を形成。天正10年(1582年)、本能寺の変の際、安土城二の丸を守備しており、信長横死の報がもたらされると、嫡男・賦秀(氏郷)を日野城から呼んで、6月3日卯刻に安土城から信長の御台君達を日野城に避難させて、立て籠もった。このことは伊賀越えの最中の徳川家康から労をねぎらわれている。脱出の最中、信長の女房衆から安土城を焼き、城内の宝物を持ち出すよう賢秀に言ったが、「神仏の加護から見放されてしまう」と断り、「宝物を取るとは欲にふけっている」と批判されるので、そのまま退城したという。明智光秀からは多賀豊後守や布施忠兵衛等が派遣され、味方に付けば近江半国を遣わすとの破格の条件を提示してきたが、賢秀は信長の恩を忘れることはできないと敢然と拒絶したという。同年、賦秀に家督を譲る(月日は不明だが、本能寺の変の直後数ヶ月の間とされている)。天正12年(1584年)4月17日に死去。享年51。墓所は恵倫寺(福島県会津若松市)。
出典:wikipedia
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