1995年のF1世界選手権は、FIAF1世界選手権の第46回大会である。1995年3月26日にブラジルで開幕し、11月12日にオーストラリアで開催される最終戦まで、全17戦で争われた。前年から引き続き、安全面を考慮したレギュレーション改正が行われた。スピード抑制のためエンジン排気量を3,500ccから3,000ccへ削減。車体底面のダウンフォース発生効率を下げるため、車体底面の中央部分と両脇部分に50mmの段差を設けるステップド・ボトム規定が導入された。また、クラッシュ時のドライバー保護のため、コクピット周辺の寸法や耐衝撃強度も規定された。ベネトンがセカンドチームのリジェからルノーエンジンの使用権を獲得。選手権を争うウィリアムズとベネトンが同一エンジンを搭載することになり、チーム力やドライバーの能力が比較されることになった。結果、ルノー搭載車4台が17戦中16勝(表彰台1~3位独占3回)。コンストラクターズではベネトン・ルノー、ウィリアムズ・ルノーが1、2位。ドライバーズでも上位1~4位を独占するなど、ルノーエンジンの強さを証明する形となった。前年の最終戦、デイモン・ヒルとの相討ち決着で物議を醸したミハエル・シューマッハは、1992年のナイジェル・マンセルに並ぶシーズン9勝(1992年は年間16戦)を記録し、ドライバーズタイトルを連覇した。ポールポジション数ではウィリアムズ勢の12回に対しシューマッハは4回ながら、ピットストップの回数やタイミングの妙で逆転する勝ちパターンを確立。シューマッハ人気に沸く地元ドイツで開催されたドイツGPとヨーロッパGPの2レースとも勝利した。対するヒルは首位走行中のリタイアなどマシンの信頼性に泣き、レース戦略で後手を踏んだ。後半戦はドライビングミスもあり、チームメイトのデビッド・クルサードの勢いに押される場面もあった。クルサードは4連続ポールポジションを獲得し、ポルトガルGPで初優勝したが、つまらないミスを犯すこともあった。この年もシューマッハとヒルの因縁は続き、フランスGPではヒルがブレーキテスト(後続車の前で故意にスピードを落とす)をしたとシューマッハが非難。イギリスGPでは前年最終戦と同様に、インを突くヒルとアウトからかぶせたシューマッハが絡んでリタイア。ベルギーGPではシューマッハが予選16番手から優勝したが、ヒルへのブロックが危険とみなされ執行猶予付きの1戦出場停止処分を受けた。イタリアGPではヒルがシューマッハに追突し、マシンを降りたシューマッハがヒルに抗議。この件ではヒルが執行猶予付きの1戦出場停止処分となった。ジョニー・ハーバートはヒルとシューマッハが共倒れとなった2戦を制し、地元イギリスGPで初優勝を達成した。ベネトンのコンストラクターズ初タイトルに貢献したが、シューマッハを優遇するチーム体制に苦しんだ。ルノー勢の全勝を阻んだのはフェラーリのジャン・アレジだった。カナダGPでの1勝は参戦92戦目での初優勝であり、結果的に唯一の勝利となった。フェラーリ勢は表彰台圏内に食い込み、ベルギーGP予選ではフロントローを独占。地元イタリアGPでは終盤までワンツー走行するなど、名門チームの復調を印象付けた。しかし、翌年のシューマッハ加入が決まったため、アレジとゲルハルト・ベルガーはベネトンへ移籍することになる。マクラーレンは新たにメルセデスエンジンと提携し、ロン・デニスと犬猿の仲といわれたナイジェル・マンセルが加入するなどシーズン前に話題を集めた。しかし、マンセルはコクピットの狭さを理由に欠場した後、スペインGPを最後に引退。センターウイングが売りのMP4/10の戦闘力も低く、オーストラリアGP予選でミカ・ハッキネンが重傷を負うなど不振のシーズンとなった。当初4月に第2戦として予定されていたパシフィックグランプリは、同年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の影響を受け、第15戦へ変更された。その結果、鈴鹿サーキットでの第16戦日本グランプリとあわせて、1国2週連続開催となった。 リタイアしたがレース距離の90%以上を走行していたため完走扱い
出典:wikipedia
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