高 保融(こう ほゆう)は十国荊南の第3代王。文献王高従誨の三男。乾祐元年(948年)、南平王であった文献王が死去すると、その地位を継ぎ、後漢の隠帝より荊南節度使同平章事兼侍中に封じられた。そして広順元年(951年)には後周の太祖より渤海郡王に、顕徳元年(954年)には南平王に封じられた。史書によれば貞懿王は凡庸であり、朝政の重大事は全て十弟の高保勗に委ねていた。趙匡胤が宋を建国した建隆元年(960年)には、その国勢を恐れ1年に3度も朝貢の使者を派遣している。同年41歳で病没すると、太尉と貞懿王の諡号を贈られた。長男の高継沖が幼少であったため、高保勗がその地位を継承した。
出典:wikipedia
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