ディー・ディー・ブリッジウォーター (Dee Dee Bridgewater,1950年5月27日 - )は、アメリカ・テネシー州メンフィス出身のジャズ歌手・俳優。本名はデニス・アイリーン・ギャレット (Denise Eileen Garrett)。現在、国際連合食糧農業機関(FAO)の大使をつとめている。出生名「デニス・アイリーン・ギャレット」としてテネシー州メンフィスで生まれ、ミシガン州フリントのカトリックの家庭で育った。父マシュウ・ギャレットがジャズ・トランペッターで、マナサス高等学校の教師をしていたため、早くからジャズを歌い始めた。16歳の時、ミシガン州のクラブでロック&リズム・アンド・ブルース・トリオに歌手として参加した。18歳の時、ミシガン州立大学に進学し、その後イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校で学んだ。1969年、自身のジャズバンドと共にソヴィエト連邦へツアー公演を行なった。翌年、トランペット奏者のセシル・ブリッジウォーターと出会い、結婚後ニューヨークに転居して彼女はホレス・シルヴァーのバンドで演奏した。1970年代初頭、彼女はサド・ジョーンズ/メル・ルイス・ジャズ・オーケストラにリード・ヴォーカルとして加入した。これによりジャズでのキャリアをスタートさせ、ソニー・ロリンズ、ディジー・ガレスピー、デクスター・ゴードン、マックス・ローチ、ローランド・カークといった著名なジャズ・ミュージシャンと共演した。1973年、モントレー・ジャズ・フェスティバルに出演した。1974年、1枚目のアルバム『"Afro Blue" 』をリリースし、ブロードウェイ・ミュージカル『ザ・ウィズ』に出演した。良い魔女グリンダ役を演じ、1975年、トニー賞助演女優賞を受賞し、1976年、『ザ・ウィズ』はグラミー賞ミュージカル・ショー・アルバム賞を受賞した。ステージで立ちつくして歌うスタイルの歌手が多い中、「歌って踊る」彼女のパフォーマンスはアメリカでなかなか受け入れられず、一時期はミュージカルに活動の主軸を移した。1984年のミュージカル『"Sophisticated Ladies" 』で賛辞を受け、1986年にフランスへ移住した。同年、ミュージカル『"Lady Day" 』でビリー・ホリデイ役で主演し、ローレンス・オリヴィエ賞にノミネートされ、レイ・チャールズと共に『"Precious Thing" 』をレコーディングした。1980年代後期および1990年代初頭、ミュージカル界からジャズ界に戻った。1990年、イタリアのサンレモ音楽祭とスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルで演奏し、4年後、長年尊敬し続けていたホレス・シルヴァーと遂にコラボレーションを果たし、アルバム『"Love and Peace: A Tribute to Horace Silver" 』をリリースした。また1996年にはサンフランシスコ・ジャズ・フェスティバルに出演した。1997年、トリビュート・アルバム『"Dear Ella" 』が1998年グラミー賞ジャズ・ヴォーカル・アルバム賞を受賞し、1998年のアルバム『"Live at Yoshi's" 』もグラミー賞にノミネートされた。1998年、再度モントルー・ジャズ・フェスティバルに出演した。2002年、クルト・ヴァイルの曲で構成されるアルバム『"This Is New" 』、2005年、フランスのクラシック曲で構成されるアルバム『"J'ai deux amours" 』をリリースした。2007年のアルバム『"Red Earth" 』はアフリカの影響を受けており、西アフリカのマリ共和国の多くのミュージシャンが参加した。2007年、再度サンフランシスコ・ジャズ・フェスティバルに出演した。2007年12月8日、ワシントンD.C.のジョン・F・ケネディ・センターでテレンス・ブランチャード・クインテットと共に演奏した。しばしばツアー公演を行ない、世界中でコンサートを行なっている。2009年10月16日、上海JZジャズ・フェスティバルのオープニングに出演し、エラ・フィッツジェラルドに関連する曲の他、デューク・エリントンなどジャズのスタンダードを演奏した。ヴァーヴ・レコードから多数のアルバムを発表し、1990年代以降においてダイアン・リーヴス、カサンドラ・ウィルソン、ダイアナ・クラールらと共に最も成功したジャズ歌手の一人と考えられている。最初の夫であるトランペット奏者セシル・ブリッジウォーターとの間に長女、二度目の夫との間に二女、現在の夫との間に長男がいる。二女のチャイナ・モーゼス(China Moses、1978年生まれ)もフランスや米国を中心に活躍するジャズ歌手である。
出典:wikipedia
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