“チャーリー”サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン(Sir Charles Spencer "Charlie" Chaplin, KBE、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督、コメディアン、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。左利き。映画の黎明期において、数々の傑作コメディ映画を作り上げ、「喜劇王」の異名をもつ。同年代に活躍したコメディアン、バスター・キートンやハロルド・ロイドと並び、「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。チャップリンは、ハリウッドにおいて極めてマルチな才能を示した人物であり、徹底した完璧主義で知られていた。依然多くのファンを獲得する不世出の天才であるが、その作品には毒性もあり、ユーモアの陰に鋭い社会諷刺、下町に生きる庶民の哀愁や怒り、涙までも描かれているため、純粋に笑いのみを追求する他のコメディアンとは一線を画す存在であることは特筆すべきである。各種メディアを通じ、現在においても彼の姿や作品に触れることは容易である。 今以て研究が続けられ、作品の修復プロジェクトは進行中である。関連書やオリジナルグッズも多く発売され、新発見と驚きでファンを魅了しつづける。1889年4月16日、イギリス・ロンドンのケニントン地区、ランベスのイースト・レーンで生まれた。父はチャールズ・チャップリン・シニア、母はハンナ・チャップリンで、ともにミュージック・ホールの俳優である。1歳のときに両親は離婚し、以降は母親のもとで育てられた。5歳のとき、オルダーショットの劇場での公演で、舞台に立っていた母親が喉をつぶしてしまう。そこで支配人は、チャップリンが舞台裏で様々な芸で母親の友人たちを笑わせているところを見たため、彼を急きょ舞台に立たせることにした。チャップリンはそこで歌を歌って大喝采を浴びた。これがチャーリーの初舞台となった。しかし、これによって母親は二度と舞台に立つことができず、チャップリンは貧窮生活に陥った。そして1896年頃に母親は精神に異常をきたし施設に収容された。どん底生活を余儀なくされたチャーリーは、4歳違いの異父兄シドニーといくつかの貧民院や孤児学校を渡り歩き、生きるために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞やマーケットの売り子とあらゆる職を転々とし、時にはコソ泥まで働いた。その傍ら俳優斡旋所に通い、1899年に木靴ダンスの一座「エイト・ランカシア・ラッズ」に加わった。1901年、父親がアルコール依存症で死去。1903年、『ロンドン子ジムの物語』のサム役、『シャーロック・ホームズ』のビリー役を演じ、地方巡業にも参加。その後、様々な劇団を転々とし演技のスキルを積んでいった。1908年、兄の勧めで名門劇団に入り、寸劇『フットボール試合』のけちんぼ役、『恐れ知らずのジミー』などで成功。一座の若手看板俳優となった。この頃15歳のコーラス・ガールヘティ・ケリーに恋をする。1909年、パリ巡業。1910年、寸劇『スケート』や『ワウワウ』に主演し好評を博す。 アメリカおよびカナダ各地を巡業。ことにボックス席の酔っ払いが騒動を巻きおこす『マミング・バーズ(唖鳥)』は当たり役となり、以後『ロンドン・クラブの一夜』と題されて大成功をおさめた。1913年、カーノー劇団の2度目のアメリカ巡業の際に、映画プロデューサーマック・セネットの目にとまり、週給150ドルの契約で、「キーストン・コップス」で有名なキーストン社()に入社する。翌1914年、『成功争ひ』で映画デビュー。セネットに“面白い格好をしろ”と要求され、チャップリンは楽屋にいって山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装で、2作目の『ヴェニスの子供自動車競走』に出演。以降『独裁者』(1940年)までこの扮装が彼のトレードマークとなった。キーストン社のトップスターであるフォード・スターリングやメーベル・ノーマンド、ロスコー・アーバックルらと共演し、たちまち人気者となったチャップリンは、同年に『恋の二十分』で初めて監督・脚本を務めた。この年だけでチャップリンは35本の短編と、『醜女の深情』というマック・セネット監督の長編に出演している。1915年、シカゴのエッサネイ社()に週給1250ドルの契約で移籍。自身で監督・脚本・主演した作品を14本作り、チャップリン演じる浮浪者が繰り広げるドタバタコメディは人気を博した。エッサネイ社第2作の『アルコール夜通し転宅』でエドナ・パーヴァイアンスが起用され、以後8年間、公私ともに良きパートナーとして過ごす。1916年、週給1万ドルにボーナス15万ドル、年額67万ドル(アメリカ大統領の年俸の7倍)という破格の契約金でミューチュアル社()に迎えられる。ここでは製作の自由を与えられ、よりよい環境とスタッフの下12本の傑作を世に送った。この年に兄シドニーが弟のマネージャーとなり、運転手として日本人の高野虎市が雇われた。チャップリンは、「ミューチュアルで働いていた頃が、一番幸福な時期だったかもしれない」と語っている。またこれらの作品はアメリカのみならず、イギリスやフランス、日本など世界各国に配給され、高い人気を得た。1918年、ハリウッドのラ・ブレア通りに自身の撮影スタジオを設け、ファースト・ナショナル社(、後にワーナー・ブラザーズと合併)と、年間100万ドル超の契約を結び、名実ともに世界的ビッグスターとなる。一作ごとにかける時間と労力を惜しまず、マイペースで作品を作れる環境を整え、多くの名作を生みだした。また同年には、第一次世界大戦にイギリスや日本などとともに参戦した、アメリカ政府の発行する戦時公債促進キャンペーンに尽力し、プロパガンダ映画『公債』を製作。16歳の新進女優ミルドレッド・ハリスと初めての結婚も果した。1919年、盟友のダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、監督のD・W・グリフィスとともに配給会社ユナイテッド・アーティスツ(現メトロ・ゴールドウィン・メイヤー傘下)を設立し、俳優がプロデューサーを介さず映画製作が出来る公益な場を提供する。1921年、全米で大ヒット中の映画『キッド』を携え、故郷ロンドンヘ凱旋帰国。たいへんな歓迎ぶりで、小説家H.G.ウェルズや各界著名人と親交を結んだ。パリ、ベルリンと、戦後のヨーロッパの各都市を一巡したチャップリンは、戦禍の傷跡を人々の間に目の当たりにする。帰国後、口述で『My Trip Abroad』をしたためる。1923年、初の自身が出演しない監督作品『巴里の女性』をユナイテッド・アーティスツから発表。1925年、『黄金狂時代』が記録的大ヒット。1928年、『サーカス』を製作し、同年度の第1回アカデミー賞で特別賞を受賞する。同年、母親が死去。1931年、トーキー隆盛の中、サイレントの孤塁を守って3年がかりで撮った『街の灯』が興行的な成功をおさめ、人気のピークを迎えていたチャップリンは、一年半に及ぶ世界旅行へと出立。10年ぶりに訪れたロンドンではチャーチルや劇作家のバーナード・ショーと、ベルリンでは『街の灯』のプレミアに招聘したアインシュタインやマレーネ・ディートリヒと再会を果たす。1932年、イギリスの植民地であるシンガポールにジャワ、バリ島を経て兄シドニーとともに日本へ。神戸や東京を訪問するものの、訪日中にたまたま発生した国粋主義的な士官によるクーデター未遂事件である五・一五事件の巻添えになりかける。「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者たちの間でチャップリンの暗殺が画策されていた。1936年、機械文明と資本主義を批判した『モダン・タイムス』と、1940年にドイツのナチス党を批判した『独裁者』を発表。しかしこれら2作は政治的メッセージが強いと受け止めるものも多く、この頃から欧米や日本などにおける鋭進的な左右両派からの突き上げが激しくなっていく。1941年12月にはアメリカが第二次世界大戦に参戦したことで戦時体制下に入ったために、戦時中は映画製作の停止を余儀なくされた。1945年に第二次世界大戦が終結し、ソビエト連邦をはじめとする東側諸国との冷戦が始まったアメリカで、『モダン・タイムス』以降の一連の作風が「容共的である」とされ、非難の的とされた。特に1947年公開の『殺人狂時代』以降はバッシングも最高潮に達し、1950年代に入り、ジョセフ・マッカーシー上院議員指揮の下、赤狩りを進める下院非米活動委員会から、他の「容共的である」とされた俳優や監督とともに何度も召喚命令を受ける。しかしそのような中で1948年に、フランス映画批評家協会は彼をノーベル平和賞に推薦した。1952年、ロンドンで『ライムライト』のプレミアのために向かう船の途中、アメリカのトルーマン政権の法務長官ジェームズ・P・マクグネラリー()から事実上の国外追放命令を受ける。自身の意にはそぐわなかったが、スイス・ローザンヌのアメリカ領事館で再入国許可証を返還。自らに名声や富、成功をもたらす大きな原動力となったアメリカと決別する。アメリカの一般国民はこのチャップリンの追放劇に激しく抗議。決定した国務長官のもとに国内だけで数万通に及ぶ抗議の手紙が殺到した。国務長官は特別に、「チャップリン氏がアメリカにとって危険な人物である証拠は存在するが、今は明らかにできない」と苦し紛れの声明を出さざるを得なくなった。さらに1954年には左派団体の世界平和評議会が「平和国際賞」を贈るなど、この追放劇はチャップリンの名声を利用しようとした世界各国の右派、左派両方から政治的に利用される結果となった。アメリカを去ったチャップリンは、映画への出演もめっきり少なくなるが、スイスのブドウ畑を臨む広大な邸宅「マノワール・ド・バン」に移り住み、妻ウーナや8人の子供たちと幸せな晩年を送る。世界的な名士として尊敬され、クララ・ハスキルやパブロ・カザルス、ジャン・コクトー、山口淑子らと交友関係を持った。1965年にエラスムス賞を受賞。その頃に公刊された『私の自叙伝』は空前のベストセラーとなった。1969年、3女ヴィクトリアのために新作を構想。「ザ・フリーク」()の台本にとりかかる。また旧作を再公開するため、バックグラウンドミュージックの作曲を続けた。1971年、フランス政府によりレジオンドヌール勲章、パリ市議会からは名誉市民の称号を与えられる。1972年、アカデミー賞名誉賞に選ばれ、授賞式に出席するため、20年ぶりにアメリカの地を踏む(後述)。この授賞はチャップリンの国外退去を阻止できなかったハリウッドからの謝罪を意味した。舞台に登壇したチャップリンに対し、会場にいる全ての者がスタンディングオベーションで迎えた。1975年、それまでの活動を評価されエリザベス2世よりナイトに叙され「サー・チャールズ」となった。しかし、左寄りとされた思想や女性問題で叙勲がかなり遅れたことが分かっている(後述)。1976年の秋、地元スイスの「クニー・サーカス」()の公演に車イス姿で目撃される。これはチャップリンがスイスに居住して以来、毎年欠かさない鑑賞行事であった。1977年のクリスマスの朝、スイス・ヴェヴェイの街を見渡せる村コルズィエ=スュール=ヴェヴェイの自宅で永眠。88歳だった。
生前は隣村に移住していたイギリスの俳優ジェームズ・メイソン(1984年没)と親交を深めていた。両者は死後、村のこぢんまりとした墓地に3メートルほどの距離で埋葬された。死後、金銭目的で墓から柩が持ち出される事件があったが、柩は墓地から17キロメートル離れたレマン湖畔のトウモロコシ畑で発見された。
後日、主犯のポーランド人ロマン・ワルダス(Roman Wardas)と、ブルガリア人ガンチョ・ガネフ(Gantscho Ganev)の2人が逮捕された。ヴェヴェイのレマン湖畔にはチャップリンの銅像が建立され、世界各国から多くのファンが訪れる観光スポットの一つとなっている。なお、ロンドンのレスター・スクウェアにも同型のチャップリン立像がある。チャップリンの最もよく知られている役柄は「小さな放浪者=」である。窮屈な上着に、だぶだぶのズボンと大きすぎる靴(ドタ靴)、山高帽に竹のステッキといったいでたち、パーマ頭にちょび髭の人物で、アヒルのように足を大きく広げてガニ股で歩く特徴をもつ。ホームレスだが紳士としての威厳をもち、優雅な物腰とその持ち前の反骨精神でブルジョワを茶化し、権力を振りかざすものを笑い飛ばした。この独特の扮装と役柄は、映画出演2作目『ヴェニスの子供自動車競走』(1914年)で初めて登場している (チャップリン本人は当初、観客に受け入れられるとは思わなかったという)。以後、このTrampは年代とともに徐々に変化し、滑稽味の中にもペーソス(悲壮感)を湛えたハートフルなキャラクターに成長。貧しくとも人間としての誇りを失わない永遠の“放浪紳士チャーリー”が誕生する。アメリカの反動的なマスコミから、「危険思想をバラ撒き、健全な市民階級に毒素を注入している」などと揶揄されたが、そんな保守的な世論にも果敢に立ち向かい、プロレタリアートの立場から、資本主義社会に対する不平等への“怒り”を表現するに至る。初期はショート作品が主体で、放浪者のキャラクターも心優しさよりは寧ろコミカルな動き一辺倒で笑わせる非道なドタバタが主流であった。貧困階層の市民として、当時の世相や政府を風刺したものが多く、また思想的にはアナーキーでドライな作風が多い(女たらしで喧嘩っ早く、周囲との揉め事は始終絶えない。ラストは偽った身分もバレて巡査との追いかけっこ、というパターンがお決まりである)。しかし、1917年の『勇敢』・『移民』あたりから、社会的弱者に対する同情が彼独自のヒューマニズムとなり、コメディー路線に新たな境地を切り拓く。1918年の『犬の生活』でよく知られる「心優しき放浪者」が完成された後、『担へ銃』では戦争の愚かさと一兵卒の悲哀をユーモアのなかに描き、『偽牧師(1923)』では、宗教を笠に着る偽善を巧みに暴いてみせた。また『サニーサイド(1919)』では、甘美な夢と痛ましい現実が交錯し、初の長編『キッド(1921)』ではドタバタも控えめに、ドラマ性重視のコメディリリーフを試みた。捨て子と実母との再会までの奇跡を、実の親子以上の絆で結ばれた二人の物語となって、観客の胸を打つ。さらにリアリズムに徹した意欲作『巴里の女性(1923)』。アラスカ・クロンダイクの金鉱発掘者たちのドラマ『黄金狂時代(1925)』。曲馬団の少女に恋をして奮闘する『サーカス(1928)』などで、高い芸術性が評価されるようになる。
また、背中を向けてひとり悄然と、しかし朗らかに歩み去っていくラストシーンは、初期の『失恋(1915)』で初めて登場して以来の定石であるが、エドナ・パーヴァイアンスとの出会いから生み出されたと言われる。以降、美しいものへの憧憬と、放浪者のまなざしが社会の歪みや冷酷さへ向けられると、その作風も大きく変わってゆく。街角で出会った盲目の花売り娘に、無償の愛を注ぐ『街の灯(1931)』。大不況のさ中に苦悶する労働者の実態を通し、幸福とはなにかを問い掛ける『モダン・タイムス(1936)』。ナチス・ドイツが台頭するヨーロッパで、ヒトラーをこてんぱんにカリカチュアした『独裁者(1940)』。“チャーリー”スタイルから脱却し、反戦メッセージを含ます異色のブラック・コメディ『殺人狂時代(1947)』。落ちぶれた老芸人が、足の不自由なバレリーナと再起を賭ける『ライムライト(1952)』。現代アメリカの矛盾点を鋭くえぐった『ニューヨークの王様(1957)』など。フランスの映画監督ジャン・ルノワールは「チャップリンはただ一つの作品をつくったのだ」と言っている。専属のキャメラマンに、エッサネイ時代から『殺人狂時代』までの長きにわたりが務めた。出演者には同じ俳優を起用することが多く、ヒロイン役にはエドナ・パーヴァイアンスが1915年から1923年までの全35本の作品に出演している。そのほかのヒロイン役としてはジョージア・ヘイル(『黄金狂時代』)、ヴァージニア・チェリル(『街の灯』)、ポーレット・ゴダード(『モダン・タイムス』『独裁者』)、クレア・ブルーム(『ライムライト』)などが挙げられる。助演者にはチャップリンの右腕で良き親友でもあったヘンリー・バーグマン(全20本に出演)をはじめ、アルバート・オースチン、アラン・ガルシア、エリック・キャンベル、ジョン・ランド、レオ・ホワイトなどが常連出演した。またマック・スウェイン、フィリス・アレン、チェスター・コンクリン、ハンク・マンといったキーストン・スタジオ出身の喜劇俳優たちも長くチャップリン映画で活躍した。チャップリンに関して伝えられる物語の一つに、彼が子供の時に見た食肉処理場から逃げ出した羊の話がある。周囲の人間は慌てて羊を追いかけるのだが、羊も必死で逃げるから羊も人間も右往左往、あちこちぶつかってはひっくり返った。そのおかしな光景に周りの人間は腹を抱えて笑ったが、やがて羊がつかまえられたとき、「あの羊、殺されるよ…」と泣きながら母のもとに走って行った。喜劇と悲劇が紙一重になっているチャップリンの作風の原点となっている。(『自伝』より)“永遠の放浪者チャーリー”のモデルとされる人物には、幼少に見たルンペンたち、ミュージック・ホール時代のスターたち、草創期の映画スターたち(特にマックス・ランデー)など多くのモデルがいる。
チャップリンの母ハンナは、通りをゆく人々をパントマイムで表現し、幼い彼に人間観察の大切さを教えたという。映画の中で笑いの起爆剤となるドタ靴について、淀川長治は著書や講演の際に「寒い雪の中を教会の慈善スープを貰いに、母親の靴を履かされた思い出」などを語っているが、作り話であった。チャップリンの幼少期の経験は、後に作られる数々の作品の中で断片的に投影されていく。劇団の巡業で渡米する際、母親の入国許可は下りなかったが、ハリウッドで成功してからは母を呼び寄せることができた。彼女を風光明媚な海岸の一軒家に住まわせ、面倒見のいい夫婦と経験豊かな看護婦を雇った。しかし彼女は最後まで息子の成功を理解できぬまま、1928年に亡くなった。もう生活の気苦労はなかったはずなのに、この先何か問題が起こるのではないかと心配していた、と後年チャップリンは回想している。チャップリンは、ドイツのナチ党の指導者で、選挙を経て同国の総統となり、その後独裁体制を敷いたアドルフ・ヒトラーに強い反感を持ち、1940年に発表した『独裁者』ではヒトラーを痛烈に批判している。ただ、『独裁者』製作時のアメリカはまだ第二次世界大戦に参戦しておらず、国内にはドイツ系市民を中核とする親ナチ派が歴として存在していた。ファシズム色を濃くし、ユダヤ人への弾圧強化、オーストリアやチェコスロバキアを併合していった上に第二次世界大戦を引き起こしたヒトラーに対してさえ、「共産主義の防波堤」と称賛する者もいたほどで、チャップリンの元には連日のように製作中止を求めるクレーム、暗殺を仄めかす脅迫状が届いた。しかし、そんな陰の圧力にも屈せず公開させると、批評家からは概ね好評で、熱烈な反ファシストを宣言していたF・D・ルーズベルト大統領からホワイトハウスに招かれるなど、それまでのチャップリン映画中、最も興収を上げた作品となった。なお、この映画に出てくる床屋のイメージからか「チャップリン=ユダヤ人」と捉える人も根強くいるが、チャップリンはユダヤ人ではない。チャップリンはカーノー劇団所属時での寸劇や、ごく初期の作品でユダヤ人を小馬鹿にするギャグを使っている(挨拶の際、ユダヤ人特有の長い顎鬚で涙を拭ったり引張ったりする)。また、ある人には「ユダヤ人と思われて光栄だ」と語っており、それが「チャップリン=ユダヤ人」説の原因になったのかもしれない。監督、主演だけではなく脚本や演出も担当し、『街の灯』以降の全作品、1918年からの『キッド』、『黄金狂時代』、『サーカス』などの一連のサイレント作品をリバイバル上映用に再編集して、自ら劇伴を作曲したこと、わずか数秒のシーンを納得のいくまで何百テイクと撮り直したことなどから、業界随一の完璧主義者と呼ばれた。特に『街の灯』における花売り娘との出会いのシーン(正味3分ほど)では、一年以上にわたって342回ものNGを出した(チャップリンが主演のヴァージニア・チェリルを根本的に好かなかったという理由がある)。この映画は完成までに534日かかっているが、たった一つの場面だけに368日が費やされている。前作の『サーカス』においては、地上数十メートルの高さでスタントなしで綱渡りを披露したことも例に挙げられる。また、唯一のシリアスメロドラマ『巴里の女性』(1923年)においては、映画作家としての手腕を発揮し、後世の映画人に与えた影響は大きい。最後に撮った『伯爵夫人』(1967年)同様、監督にのみ徹し主演はしていないが、後者はソフィア・ローレン、マーロン・ブランドという二大ビッグスターを起用し話題にはなったものの、コメディに不向きなマーロンを抜擢したのが良くなかったのか、「時代おくれ」 「偉大な天才の凡作」という評価が多かった。一方『巴里の女性』は、永年の相手役エドナ・パーヴァイアンスを大女優にすべく製作されたもので、それまでのハリウッド製娯楽映画にはみられなかったソフィスティケートされた演出が話題をさらい、当時の批評家やインテリ層を唸らせた。しかし一般受けせず、興行成績も芳しくなかったため、長らくのお蔵入りとなる。この「幻の名作」が再び世に出たのは1976年、死の前年のことであった。出演した作品はサイレント映画がほとんどで、こういったことから「チャップリンはトーキーを軽蔑し、サイレントに固執していた」という印象が強いが、軽蔑していたのではなく放浪者のイメージが声で崩れることを恐れたとされる。1929年には、アメリカの大半がトーキー(サウンド)映画に移行する中で、「パントマイム芸こそが世界共通語」だと疑わぬチャップリンには信念があった。実際1931年の『街の灯』では、サイレント形式にこだわりつつも、全編にわたって初めて音響効果を伴うサウンドを付けた。続く1936年の『モダン・タイムス』では、ストーリー上必要な部分にだけトーキーを使い、1940年公開の『独裁者』で初めて、完全なトーキーに踏みきった。全編カラーのシネマスコープ作品は『伯爵夫人』のみである。音楽家になる夢を捨てきれず、1916年にチャーリー・チャップリン音楽会社を設立し、自作の曲3曲を出版した(「Peace Patrol」、「Oh!That Cello」、「There's Always One You Can't Forget」)。しかし2000部刷った楽譜は3部しか売れず、すぐに頓挫してしまったらしい。1925年には、エイブ・ライマン・オーケストラ()をバックに2曲(「Sing A Song」、「With You Dear In Bombay」)をレコーディング。ゲスト・コンダクターとして指揮をとり、ヴァイオリンのソロパートも自ら演奏した。正式な音楽教育は受けておらず、譜面の読み書きは出来なかったが(これについては後述)、サイレント映画における伴奏音楽の重要性を早くから認識し、『キッド』を上映の際には全ての劇場にキューシートを配付するなど、遺漏がなかった。チャップリンの作曲は、思いついたメロディをピアノで弾いたり口ずさんだりしたものを、専属のアレンジャーが写譜する形を取った。撮影の合間を縫っては、かけだしの頃に独学で習得したチェロやヴァイオリン(左利きだったため特注品を愛用)を奏で、アイディアに行き詰まると自宅に備え付けられたハーモニウムを何時間でも鳴らしたという。 しかし、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、ハーモニウムを自在に演奏し、音楽会社まで設立した人間が、「譜面の読み書きは出来ない」というのは流石に無理があり(当時のハーモニウムは鍵盤の演奏以上の指示をこなす必要がある)、チャップリンが全く出来なかったことはオーケストレーションとアレンジであったと考えるのが妥当である。 ただ、多くのチャップリンについての伝記には依然として、「譜面の読み書きは出来ない」と書かれている。チャップリンは後期ロマン派の爛熟した時代に生まれ、現代音楽の黎明期をリアルタイムで接し、「前衛の時代の終焉」の時代に没したため、特に音楽的な語彙の豊富な映画監督になった。ロンドンの街角で辻楽士が弾く「スイカズラと蜂」という流行り唄に魅せられた幼少期から、ミュージック・ホールに根ざした大衆音楽(ポピュラーソング)に慣れ親しんだ彼だからこそ書けるメロディーラインが、そこにはあった。アメリカの風刺画家ラルフ・バートン()を通じて知り合ったタイユフェール、ナチス政権を逃れてハリウッドに定住していたストラヴィンスキーやシェーンベルク、ハンス・アイスラーと分け隔てなく交流したことも、彼にインスピレーションを与えた。またレオポルド・ゴドフスキーとは友人であり、一緒に写った写真が残されている。チャップリンの作曲は「ずぶの素人」にでも分かりやすい同じフレーズの反復を多用したが、これはゴドフスキーが「古きウィーン」でみせた作曲法と全く同一である。この点、プロの作曲や難解な和声イディオムを前面に押し出したヒッチコックとは対照的である。 『独裁者』及び『黄金狂時代』のサウンド版で、ワーグナー、ブラームスといったクラシックの既成曲を大胆なアレンジで聞かせているのも、センスの良さが窺える。『ニューヨークの王様』の出だしからアメリカ国歌を直裁に引用したのも、最後まで反骨精神を失わなかった証である。チャップリンの作曲した楽曲としては、“スマイル”(Smile)(『モダン・タイムス』)や“エターナリー”(Eternally)(『ライムライト』)が有名。プッチーニのアリアにも似た美しい“スマイル”は、最初歌詞が付けられていなかったが、1954年に歌詞が付けられ、ナット・キング・コールの歌により大ヒットした。その後はマイケル・ジャクソンやエルヴィス・コステロらによってカヴァーされ、今日でもスタンダード・ナンバーとして多くのアーティストにより歌い継がれている。
また、『モダン・タイムス』の劇中においてチャップリンが歌ったデタラメ語による“ティティーナ”(Titina)は、ロサンゼルスのラッパー、J-Fiveによってサンプリングされ、ラップでも歌われた。近年、生のオーケストラをバックに、チャップリンの色褪せぬフィルム・ミュージックをスクリーンとともに愉しむ機会が世界的に増えてきた。指揮者のカール・デイヴィス()やティモシー・ブロック()が基あるオリジナル・スコアを忠実に復元したものが、劇場で新たな命を吹き込まれ、「ライブ・シネマ」という形で甦っている。チャップリンは生涯に4度の結婚を行ったとされる。〈〉は妻との間に生まれた子。()内は結婚期間チャップリンの華やかな女性遍歴を指摘する声も多々あるが、映画史家デイヴィッド・ロビンソンによると、チャップリンは女性との関係において、「ハリウッドの標準としては慎ましやかなものだった」という。3度の結婚が未成年者であることから、ロリータ嗜好があったというのは後の人間による憶測に過ぎない。1922年に婚約説が流れたポーラ・ネグリ。『黄金狂時代』のヒロインジョージア・ヘイル。新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの妾のマリオン・デイヴィスといった女優との浮名も流している。『サーカス』制作中の1927年、リタ・グレイに離婚訴訟を起こされ、自身の私生活を公表される。示談金62万5000ドルを支払うことで終結し、離婚が成立するが、この騒動は当時38歳のチャップリンを心労で白髪させるほどのものであった。後年に執筆した自伝では彼女についてほとんど触れられていない。後にリタは「じゃあ私が書きます。」と自分で赤裸々な暴露本を書いた。また、撮影スタジオの火災や、1928年には最愛の母の死もあり、チャップリンにとってあまりいい時期ではないようだ。18年間チャップリンの元で秘書として仕え、身の回りの世話を任されていた日本人高野虎市であったが、3番目の妻(事実婚)とされるポーレット・ゴダードのあまりの浪費癖に辟易し、1934年には彼のもとを去っている。1943年、女優ジョーン・バリー()には子供の父権認知訴訟を起こされる。血液判定ではチャップリンの子ではないと判定されたが、血液検査を無視した滅茶苦茶な裁判の結果、1対11の陪審員評決で扶養義務を負うことになった。バリーは、これ以前に銃を携行してチャップリン邸に押し入るなど奇行がみられた。また戦争への出兵拒否、ソ連を助けるための第二戦線開始のアジ演説をしたことでFBIから牽制を受けるなど、チャップリンをめぐるゴシップはマスコミの餌食となり、第二次世界大戦から冷戦期のアメリカでは、その平和思想もあいまってネガティブ・キャンペーンの的となった。チャップリンの関係者・接触者の中で著名なフリーメイソンは、チャップリンとユナイテッド・アーティスツ社を共同設立したダグラス・フェアバンクス(1925年フリーメイソンリー入会)とD・W・グリフィス、チャップリン映画の俳優チェスター・コンクリン(1916年フリーメイソンの階級を昇級)、チャップリンを厚遇したF・D・ルーズベルト(1911年入会)など。チャップリンが米国から追放された当時の大統領ハリー・S・トルーマンもフリーメイソンである(1909年入会)。『モダン・タイムス』に関してはチェスター・コンクリンが出演した他、1954年に「スマイル」を歌詞付で発表したナット・キング・コールはフリーメイソンである(1944年1月9日入会)。1929年、『サーカス』で第1回アカデミー賞の特別賞を受賞した。「『サーカス』での脚本、演技、監督、製作で示した非凡な才能」に対しての受賞だった。だがチャップリンは授賞式には欠席し、後日、賞の授与の際も、「わずかの人間で決めた賞なんて、そうたいした名誉ではない。私の欲しいのは大衆の喝采だ。大衆が私の仕事を賞賛してくれるならば、それで十分だ」と語り、もらったオスカー像はドアのつっかいにされていた、と息子のチャールズJrは回想する。なお、この受賞に伴い、ノミネートされていた喜劇監督賞と主演男優賞が取り消された。1972年、アメリカから追放されて20年後、第44回アカデミー賞で2度目の特別名誉賞を受賞した。これは、彼を守り切れなかったアメリカ映画界からの事実上の謝罪の意と、「映画を20世紀の芸術たらしめたチャップリンへの計り知れない功績」に対しての受賞だった。この授賞式では、スタンディングオベーションが5分以上にもわたって続くという、現在でも他に例のない最大の祝福を受け取っている。自身作曲による“スマイル”(『モダン・タイムス』)も会場のゲスト全員で歌われ、「チャップリンは単なる名前以上のもの。チャップリンは映画用語の一つである」とアカデミーの会長ダニエル・タラダッシュ()は述べた。余談だが、この授賞式に先立って行われたニューヨークでの歓迎会では黒柳徹子と面会している。彼女と対面した時、チャップリンは大変感激して「キョウト、フジヤマ、ウカイ・・」と感涙した。その後、ロサンゼルスで『ライムライト』(1952年アメリカ製作)が初めて劇場公開され、第45回アカデミー作曲賞を受賞した。本作は1952年にニューヨークで先に公開されたが、アカデミー賞の選考基準であるロサンゼルスでの公開はされていなかったので、本年度の受賞対象作品となった。また、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームから名前が消されていた事実も、この20年ぶりの帰国によって、ロサンゼルス市議会が11対3で星印を残すことに可決したのである。これらのことはアメリカとの事実上の和解となった。上記の主要な作品の内、1952年までの作品は著作権の保護期間(公開後50年)が終了したと考えられたことから、幾つかの作品が激安DVDで発売された。これに対し、製作者(版権継承者)のリヒテンシュタインの法人は、米国でパブリックドメインとなった作品を含む全作品の著作権が2015年(監督没後38年)まで日本で存続すると主張して発売業者を相手取り、発売差し止めと在庫の廃棄を求める訴えを東京地裁に起こした。2007年8月29日に東京地裁で原告全面勝訴の判決が下った。このうち、『殺人狂時代』は2017年、『ライムライト』は2022年まで保護期間が存続するとされた。発売業者は知財高裁に控訴したが、2008年2月28日に控訴棄却の判決を下した。2009年10月8日に最高裁判所第一小法廷は発売業者の上告を棄却、判決が確定した。
出典:wikipedia
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