遠山 景行(とおやま かげゆき)は戦国時代の武将。明知遠山氏当主。美濃国恵那郡明知城主。父は遠山景成(一説に明智光継)。妻は三宅高貞の娘。別名:与助。永正6年(1509年)に明知遠山氏当主の景成の子として生まれ、天文12年(1543年)迄には、家督を継いでいたようである。この時代、東美濃においては、土岐明智氏が盟主であったとされるが、天文21年(1552年)土岐明智家で当主の明智定明が弟の明智定衡に殺されるという内紛があり(一説に斎藤道三の陰謀)、その混乱に乗じて、御嵩城主の小栗信濃守が、土岐明智氏の居城である高山城を攻略しようとした。その際、景行は甲斐国の武田氏の支援を受けて小里光忠らとともにが反撃し、御嵩城を攻め落とした。以降、景行は、小里光忠 とともに武田信玄に属し、東美濃の主勢力となった。後に明知遠山家を含めた遠山家は、美濃に勢力を拡張する織田信長に接近する事になる。(後述の異説によると、景行は織田信長の正室の伯父となり、織田家と結びつく必然性がある。その縁もあったためか、織田氏と武田氏が対立してからは、織田氏につくことになった。)元亀3年(1572年)足利義昭に忠義を誓い、本願寺と結んだ武田信玄は、信長打倒のために西上を開始する(西上作戦)。東美濃においては、その11月武田の将秋山信友が岩村遠山氏の岩村城をはじめ、明知、苗木、飯狭、串原などの遠山氏領を攻略した。そのような状況のなか、同年12月28日、景行はほかの遠山諸氏や小里氏、さらには徳川勢(菱鹿の奥平、台倉の戸田、足助の鈴木など)の援軍を得て、秋山信友率いる武田軍と上村の地で合戦に及んだ(上村合戦)。この合戦で、遠山勢は敗れ、小里光次などとともに討ち死にした。享年64、墓は恵那市明智町杉野の安住寺にある。そこには、永禄4年(1561年)に亡くなった妻の墓もある。また、その子利景が建立した龍護寺にも墓がある。法名は、乾樹院殿文岳宗叔大居士。跡は景玄の子一行が継いだ。明治期に阿部直輔によって謄写校正された『恵那叢書』(鷹見弥之右衛門著)によると、美濃出身で織田信長の重臣となった明智光秀の叔父である明智光安は景行の事であるとしている。その説に従うと景行は明智光継の三男として生まれ、明知遠山氏を継いだ事となる。また永井寛が『明智光秀』でその説を補強している。景行は入道して宗叔と号しているが、明智光安は宗宿(または宗寂)と号していて類似しており、また景行より前と以降で明知遠山氏の墓所が異なることも根拠となるという。
出典:wikipedia
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