河野 旭輝(こうの あきてる、1935年1月1日 - 2014年1月25日)は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督。和歌山工業高校から松下電器に進み、1953年の都市対抗にチームとしての初出場を果たす。1954年に阪急ブレーブスへ入団、同年はルーキーながらレギュラー二塁手として起用される。1955年には、帰国したラリー・レインズ(前年の首位打者)の後継として遊撃手に回り、初めて規定打席に到達(15位、打率.283)した。3年目の1956年に85盗塁を記録し、盗塁王に輝く。この記録は1972年に後輩・福本豊に抜かされるまで日本記録であった(現在4番目の記録で福本を除けば1番目である)。1957年も56盗塁で2年連続の盗塁王を獲得。1958年に本屋敷錦吾が入団すると定位置を失うが、1959年には中堅手にコンバートされ復活した。1961年に岡嶋博治との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍。同年にはチャンスメーカーとして打率.275(ベストテン8位)の好成績を記録し、遊撃手のベストナインを獲得。1962年には、再び自慢の俊足で3回目の盗塁王を獲得。セ・パ両リーグで盗塁王を獲得したのは河野だけである。1964年に牧田政彦との交換トレードで阪急へ復帰。阪神に移籍した本屋敷に代り、2年間はレギュラー遊撃手として活躍するが、1966年に山口富士雄に定位置を譲る。1967年に西鉄ライオンズへ移籍し、同年に現役を引退。引退後は西鉄(1968年 - 1969年一軍打撃コーチ)、ヤクルト(1972年 -_1973年一軍内野守備コーチ, 1984年一軍内野守備・走塁コーチ)、日本ハム(1974年 - 1975年一軍守備・走塁コーチ)、ロッテ(1976年 - 1980年一軍内野守備・走塁コーチ)、阪神タイガース(1981年 - 1983年一軍内野守備コーチ, 1985年 - 1986年二軍守備・走塁コーチ, 1987年二軍総括守備・走塁コーチ, 1988年・1992年 - 1994年二軍監督, 1989年 - 1991年チーフコーチ)で監督・コーチを歴任。落合博満が中日ドラゴンズ監督就任後から選手に対して行うノックも、落合がロッテ時代に河野から受けたことが影響しているといわれている。2014年1月25日死去。1955年に来日して河野のチームメイトとなり、河野の後に盗塁王を三度記録したロベルト・バルボンは、プレースタイルや日本での生活の手本のほとんどを河野に求めていた。バルボンは後年、「河野さんは、ボクのティーチャーです。恩人です。河野さん親切にしてくれたから、ボク日本におれたと思うわ、ホンマ」と振り返っている。
出典:wikipedia
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