ケーシー・ステンゲル(Charles Dillon "Casey" Stengel , 1890年7月30日 - 1975年9月29日)は、アメリカメジャーリーグ、ニューヨーク・ヤンキース、ニューヨーク・メッツの元監督。ニックネームともなっている"Casey(ケーシー)"とは、彼の生まれ故郷ミズーリ州カンザスシティ ("K.C.")から来ている。また若い頃はドイツ系アメリカ人であったことから"Dutch(オランダ人)"とも呼ばれ、監督時代はその鋭い機知と皮肉なコメントから"The Old Professor"(老教授)とも呼ばれた。 ステンゲルは料理人の父Jennie Jordanと保険のセールスマンをしていた母Louisの間に生まれた。学生時代は投手をしており、野球の他にフットボール・バスケットボールの選手でもあった。ステンゲルは1908年にマイナーリーグと投手として契約。5年のマイナー暮らしの後、1912年にはメジャーリーグにデビューし、それから26年までの間、ブルックリン・ドジャースをはじめとするナショナル・リーグのいくつかのチームで外野手として活躍した(左投げ左打ち)。有能な選手ではあったが、スタープレイヤーではなかった。一方で歯科医を志し、夏は野球の選手をしつつ、シーズンオフには歯科大学に通っていた。ステンゲルは引退後、ブルックリン・ドジャース(1934-1936)、ボストン・ブレーブス(1938-1943)の監督を歴任したが、そのときの成績は芳しくなかった。1944年にマイナーリーグのミルウォーキー・ブルワーズ()、1945年にカンザスシティ・ブルースでそれぞれ監督を務めた後、1946年にオークランド・オークスの監督に就任、1948年にはパシフィック・コーストリーグで優勝を果たした。当時新監督を捜していたニューヨーク・ヤンキースがその評判を聞きつけ、1949年にステンゲルを監督に招聘した。当時ニューヨークのマスコミにはステンゲルの採用を疑問視する向きもあったが、ステンゲルはヤンキースの監督就任初年度の1949年から53年まで、空前のワールドシリーズ5連覇を成し遂げた。この時に確立したプラトーン・システム(相手投手の左右に合わせて、右打ちと左打ちの複数のオーダーを用意すること)などの戦術が功を奏したこと、またヨギ・ベラやミッキー・マントルなどの強力なスラッガーやホワイティー・フォードという強投手を効果的に使ったことで、この偉業を達成できたとも言える。ステンゲルは就任当初「このチームは私が指揮したどのチームよりも問題が少ない」と述べている。ステンゲルはヤンキースの監督として秀れた戦術を駆使し、スポーツ界だけでなく「タイム誌」のような一般誌にも掲載されるようになった。彼の野球の歴史・戦術に関する一連の語録は"Stengelese"(ステンゲル語録)と言われた。現在も存在する「監督又はコーチが1イニングに2回マウンドに行ったら、投手を交代しなくてはいけない」というルールは、ステンゲルが試合中あまりにもマウンドに足を運ぶためにできたルールとも言われる。また、サインを無視してホームランを打って、意気揚々と引き揚げてきた選手に罰金25ドルを宣告したというエピソードもあるほど、厳格であった。1960年にピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズで敗れた責任によりヤンキース監督を辞任、この時に『私が70歳だから解任か、わかった。次はそんなマネは二度としない』というコメントを残している。1962年からは新設球団ニューヨーク・メッツの初代監督に就任。しかし、エクスパンション・ドラフトで、他球団のプロテクトを外れた選手を寄せ集めたチームには、往年の神通力は通じず、就任1年目に120敗(40勝120敗)のワーストレコードを更新したのを皮切りに毎年100敗以上を喫する最下位。本人も『メッツの試合よりひどいのはメッツのダブルヘッダーだけ』、「こんな負け方が世の中にあったのか」と嘆く有様だった。毎年今年で最後と新聞に載るほどであったが、解任はされなかった。それでもニューヨークのファンは「弱いメッツ」を愛していたのである。メッツの監督4年目の1965年8月に友人宅で飲酒した際に転倒して骨折入院、そのまま辞任した。ウォーレン・スパーンは「私はステンゲルが天才になる前と天才でなくなった後の両方に仕えた唯一の男だ」と述べている 。結局、ヤンキースにおける12年間の監督生活のうち、リーグ優勝10度、ワールドシリーズ制覇7度という実績を上げた。1966年にアメリカ野球殿堂入りを果たしており、ステンゲルの監督時代につけていた背番号「37」はともに、ヤンキースとメッツで永久欠番となっている。また、メッツでは現在でも傘下マイナー組織の監督の中で最優秀者に与える賞には「ケーシー・ステンゲル賞」と名付け、弱かったとはいえ創設期を支えた名監督に敬意を表している。1970年には、メッツの本拠地シェイ・スタジアムでステンゲルの80歳の誕生日パーティーが盛大に開かれた。ステンゲルはメッツのユニフォームに袖を通し、前年に球団史上初のワールドシリーズ制覇を果たした選手・関係者、そしてスタジアムを埋めたファンに祝福され、巨大なケーキに並べられた80本のロウソクの炎を吹き消した。1975年、85歳でステンゲルはその生涯を閉じた。葬儀にはヤンキース黄金時代を支えたベラやマントルらが駆けつけ、オークス時代からの教え子で同年ヤンキース監督に就任したビリー・マーチンはステンゲルの棺のそばで寝泊りしたほどであった。マーチンは翌年のワールドシリーズにも1人だけ喪章を付けて臨んでいる。年度別成績詳細はこちら(英文)参照
出典:wikipedia
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