『鞍馬天狗』(くらまてんぐ)は、大佛次郎の時代小説シリーズであり、作中で主人公が名乗る剣士の名である。幾度も映画化・テレビ化がされ、特に46本にのぼる嵐寛寿郎主演の映画は、鞍馬天狗像を決定づけるものとなった。本項では小説に加え、映画化・テレビドラマ化された作品についても解説する。1924年(大正13年)、娯楽雑誌『ポケット』に第1作「鬼面の老女」を発表して以来、1965年(昭和40年)の「地獄太平記」まで、長編・短編計47作が発表された。幕末を舞台に「鞍馬天狗」を名乗る神出鬼没の勤王志士が、幕藩方の新撰組の行く手を阻んで縦横に活躍をするさまを描いた、戦前の大衆小説の代表的作品である。舞台は主に京都・大坂が中心となっているが、作品によっては江戸や横浜、果ては松前といった、遠方の地を舞台としたものもある。生麦事件や蛤御門の変といった歴史上の事件を背景とした作品もあり、また戦後発表された作品には、時代背景を明治維新後としたものもある。個々の作品の間には明確な関連性が見られない。例外的に、初期の『ポケット』誌に連載された短編は大枠で繋がりをもったあらすじ展開となっており、また第二次世界大戦中に発表された3編の長編のうち、1945年(昭和20年)の「鞍馬天狗破れず」は1943年(昭和18年)の『天狗倒し』の続編となっている。主人公は、普段は倉田典膳(くらた でんぜん)を名乗っているが、本名ではない。また作品によっては館岡弥吉郎(たておか やきちろう)、海野雄吉(うんの ゆうきち)と名乗っているものもある。その素性は謎が多く、天狗党の生き残りではないかと言われたこともあるが、確証はない。容姿は、「身長五尺五寸ぐらい。中肉にして白皙(はくせき=色白)、鼻筋とおり、目もと清(すず)し。」と描写されている(「角兵衛獅子」)。アラカンの映画版のように覆面をする描写はない。日本の将来に思いをめぐらす勤王志士だが、討幕派でいて幕府方を代表する勝海舟と繋がりがあったり、新撰組の近藤勇とも奇妙な交友関係をもつ(原作で天狗が近藤と一対一の対決をするのは「角兵衛獅子」1作のみ)。また維新後は新政府に対して否定的な側面を見せており、権力の批判者であることを貫いている。剣は一刀流の凄腕。時には短筒も使う。以下表中、短編と長編は福島行一の種別法による。『鞍馬天狗』の映画版は、1924年(大正13年)の實川延笑主演の『女人地獄』に始まり、1965年(昭和40年)の市川雷蔵主演の『新 鞍馬天狗 五条坂の決闘』まで、延べ60本近く製作され、天狗は様々な俳優が演じてきた。特に原作からは『角兵衛獅子』、『天狗廻状』が多く映画化されている。なかでも最も有名なのがアラカンこと嵐寛寿郎(マキノ時代は嵐長三郎名義)主演による『鞍馬天狗』シリーズであり、製作本数は46本と最大である。アラカンが打ち立てた「頭巾をかぶった覆面のヒーローが善を勧めて悪を懲らしめる」という構図は、後代の『月光仮面』や『仮面ライダー』などの「仮面ヒーロー物」の先駆けとなった。しかし、戦前撮られた『鞍馬天狗』には紛失・消失してしまい、現在では観られないものが多々ある。1927年(昭和2年)、封建的な舞台の世界に愛想を尽かし、大阪の青年歌舞伎を脱退した嵐和歌大夫(嵐寛寿郎)は、京都の活動写真制作会社「マキノ・プロダクション」に映画俳優「嵐長三郎」として入社した。長三郎はここでマキノ省三監督から「このなかからやりたい役を選べ」と雑誌『少年倶楽部』昭和2年3月号を渡される。長三郎は『角兵衛獅子』を読み、「鞍馬天狗をやりたい」と伝えたことにより、『鞍馬天狗余聞・角兵衛獅子』で映画デビューを果たす事となって、同時にはまり役となった。翌1928年(昭和3年)、長三郎はマキノを脱退して「嵐寛寿郎」(アラカン)と名乗り、以来、「鞍馬天狗」はアラカン自身の立ち上げた「嵐寛寿郎プロダクション」の代表的主演キャラクターとなった。寛プロ解散の後は、東亜キネマ、新興キネマ、日活、新東宝、宝塚映画、東映京都と各社を股に掛け、シリーズ主演を続行。アラカン扮する鞍馬天狗が敵を次々と斬り倒すその壮快なチャンバラ劇は長きに渡り大衆を魅了し続けた。アラカン自身によると、戦前から戦後にわたり、主演した『鞍馬天狗』映画は前後編含め総計46本にのぼるという。アラカンはこの小説の映画化にあたって、「覆面の怪剣士」という独特のスタイルを創り上げた。この創意工夫はアラカンの自信に裏付けられたものだった。「チャンバラこそ時代劇映画の真髄である」と考える「剣戟スタア」のアラカンにとって、映画の「鞍馬天狗」はアラカンのオリジナルであり、自身の代表的キャラクターだった。戦前戦後にわたり、何度も経済的な苦境に立たされた際も、颯爽鞍馬天狗の登場する新作映画はその都度大当たりして、アラカンを助けてくれた。アラカンの『鞍馬天狗』映画は映画評論界からは無視され「B級品」として一段低く扱われ続けたが、常に庶民に支えられていた。アラカンは1950年(昭和25年)にGHQの「チャンバラ禁止令」が解かれると、立て続けに松竹と新東宝でシリーズを再開。1953年(昭和28年)、新東宝の『青銅鬼』では親友の大河内傳次郎と組んで本格的なチャンバラ死闘を演じ、チャンバラ禁止令の欝憤を晴らした。「やはり立ち回りだ。天狗はそれで人気が落ちなかった」。この1953年、アラカンは東映京都でも萩原遼監督で『疾走雲母坂』、『危うし!鞍馬天狗』を撮ったが、ここで日本文藝家協会から思わぬ「待った」がかかった。1953年10月20日の封切りを前に、「無断映画化である、上映を中止せよ」と抗議してきたのである。アラカンにとってこれはまさに青天の霹靂だった。アラカンの『鞍馬天狗』は、戦前・戦後を通じて庶民の間で大人気のシリーズだった。しかし、この状況に不満を抱いていた人物がいた。他ならぬ原作者・大佛次郎である。東宝の渾大坊五郎はもと寛プロの制作部長で、アラカンとは古い付き合いだったが、この渾大坊が大佛の代理人として、強引にねじ込んできた。大佛は「第一に著作権無視である」、「第二に原作を勝手に書き変えて題名だけ盗んでいる」、「第三に映画の鞍馬天狗は人を斬りすぎて、原作者の意図に反している」等の理由を挙げて非難し、アラカンが演じる『鞍馬天狗』の制作中止を要求。アラカンは直接談判を考えたが、映画界の裏事情を考えて会社同士の話し合いに任せた。結局、東映京都ではあと一本『逆襲!鞍馬天狗』を撮って終わり、続いて宝塚映画で二本撮ってほしいとの要求となった。宝塚映画は東宝の子会社であり、ようするに東宝が『鞍馬天狗』が欲しかったのである。翌1954年(昭和29年)、アラカンは宝塚で四本『鞍馬天狗』を撮ったが、しばらく大佛の抗議でシリーズが止まってしまう。一方、大佛は自ら「天狗ぷろだくしょん」を設立してプロデューサーに就任し、同年より東宝で『次郎長三国志』シリーズの清水次郎長役で知られる小堀明男の主演による『新鞍馬天狗』シリーズの制作を開始し、同年10月に『新鞍馬天狗 第一話 天狗出現』を封切。この作品には「アラカンの鞍馬天狗なら5本は撮れる」と言われた程の潤沢な資金が投入され、以降のシリーズ作品でもそうであったと言われる。この『新鞍馬天狗』は原作者自ら手掛ける映画作品として、当初こそ話題にはなった。が、実際に完成した作品は、小堀の天狗姿とチャンバラシーンが常にアラカンと比較され酷評ばかりで、また大佛の人選による配役にも無理があり(例えば、30代前半の青年剣士として描かれるべき近藤勇に当時50代で老け役も演じていた志村喬を起用する、など)、さらにクライマックスでは天狗が拳銃を構え大儀を唱えるだけで敵が戦うことなく退散してしまう、といった具合に、大衆が好む時代劇の骨法や様式をまるで無視したものであった。さすがにこうした作品が成功する道理はなく、興行面で不振を極め、「日本映画史に残る大失敗作」「大佛が作家としての自身のキャリアに自ら疵を付けた」と酷評される悲惨な結果に終わった。また、巻き添えとなる形で、天狗役を演じた小堀にとっても俳優キャリアの疵となってしまった。大佛プロデュース・小堀主演の『新鞍馬天狗』シリーズの興行成績は惨憺たるもので、作を重ねる毎に映画館サイドからの大佛に対する不満の声だけが増えていった。結局「大駄作」という評を覆す事には程遠く、全10作を予定するも、1955年(昭和30年)6月公開の第3作『新鞍馬天狗 夕立の武士』を最後に打ち切りとなる。この『新鞍馬天狗』で3度も煮え湯を飲まされる格好になった映画館サイドは、その「損失補填」を理由に大佛にアラカンの鞍馬天狗の復活を強硬に要求した。自らプロデュースした作品で与えた損失が原因であるだけにさすがの大佛もこれは呑まざるを得なかった。1956年(昭和31年)、これを受けて宝塚映画での、アラカン版『鞍馬天狗』が再開。しかし、『御用盗異変』、『疾風!鞍馬天狗』を並木鏡太郎監督で撮ったところで、ついにシリーズ打ち止めとなってしまった。ただでさえ反骨漢のアラカンは、「天狗も歳をとりました」という名言を残してさっさと天狗役を降りてしまい、アラカンの鞍馬天狗は打ち止めとなった。その後、宝塚映画で鞍馬天狗の映画は制作されることなく、東映京都『鞍馬天狗』で東千代之介、大映京都『新・鞍馬天狗』で市川雷蔵が天狗を演じたものの、千代之介は単発、雷蔵も2作で終了といずれも長続きしなかった。本作を原作としたテレビドラマも幾度となく放映された。テレビドラマで鞍馬天狗を演じた俳優は以下の通りである。
出典:wikipedia
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