常盤井宮滿仁親王(ときわいのみやみつひとしんのう、新字体で「満仁親王」とも、文和3年/正平9年(1354年) - 応永33年10月8日(1426年11月7日))は室町時代前期の皇族。常盤井宮3代当主。かろうじて親王になることができ弾正尹などを務めたが品位は無品のまま据え置かれた。全仁親王の子として生まれたが、長らく親王宣下を受けることができず、ついに焦燥のあまり愛妾小少将を足利義満に差し出してその推挙を得て、永徳元年(1381年)にようやく親王宣下を受けることができた。三条公忠は日記『後愚昧記記』に「諂諛(てんゆ=媚びること)せらるるの故に、武家(=室町殿足利義満)挙申す」と記して嘲っている。「本来ならば親王になどなれない人である」と評した者もあったという。その後親王が任じられる慣例の弾正尹に任じた。その後は義満の家臣同然に扱われており、(一般常識では考えられないが)諱の「満」(旧字体:滿)の字は義満から偏諱を与えられたものと考えられる。また、応永2年(1395年)に義満が出家した際には「法名は何にするつもりか」と問われ、もともとそのつもりはなかったにもかかわらずあわてて出家している。一条経嗣は日記『荒暦』に「力なく俄に出家と云々、言語覃ばざる(およばざる)事等なり」と記している。その後は「常磐井入道親王」と呼ばれた。応永33年(1426年)に死亡した。
出典:wikipedia
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