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姉小路頼綱

姉小路 頼綱(あねがこうじ よりつな、天文9年(1540年) - 天正15年4月25日(1587年6月1日))は戦国時代・安土桃山時代の武将、大名。飛騨姉小路氏の当主。父は姉小路良頼(嗣頼)。妻が斎藤道三の娘であるため、織田信長とは相婿の間柄になる。元々は飛騨守護京極氏の一族で家臣だった三木氏であり、戦国時代に守護の支配が緩むと祖父三木直頼は益田郡を拠点に飛騨国南部に勢力を伸ばした。頼綱も元服当初は三木自綱(みつぎよりつな)と名乗っていた。父三木良頼は飛騨全土の支配者としての名分を得べく飛騨国司姉小路家(古川・小島・向の姉小路三家に分かれる)の名跡奪取を目論み、将軍足利義輝や関白近衛前嗣に運動した結果、弘治4年(1558年)1月に従五位下飛騨守(飛騨国司)の官位を得た。永禄2年(1559年)10月、自綱は姉小路一族であると朝廷から認められ、翌永禄3年(1560年)に良頼は従四位下、自綱は従五位下左衛門佐に叙任され、古川姉小路家の名跡の継承も許された。永禄5年(1562年)2月に良頼は従三位となり、この間周旋に努めてきた関白前嗣から偏諱を賜って姉小路嗣頼と名乗り、自綱も姉小路頼綱と名を改めた。同年12月、嗣頼はさらに中納言任官を将軍義輝と前嗣に働きかけ、これは正親町天皇が拒否して叶わなかったものの、以後中納言を自称し始めた。いっぽう頼綱は、永禄6年(1563年)3月に侍従に任ぜられた。南隣の美濃国を斎藤氏から奪った織田信長は永禄11年(1568年)に上洛を果たしたが、元亀元年(1570年)2月、姉小路嗣頼に上洛を命じた。頼綱は父の名代として上洛し、4月には昇殿を許されて小御所で正親町天皇に拝謁し、昇殿の御礼をした。このように信長と誼を通じる一方で、元亀3年(1572年)に上杉謙信の要請にも応じて越中国に出兵し、上杉氏に従属する姿勢も示した。越中出兵の直後に嗣頼が病没すると、頼綱は家督を継承した。天正3年(1575年)には再び上洛して馬を信長に贈呈している。天正6年(1578年)に謙信が病没すると本格的に織田側についた。天正7年(1579年)、本拠を桜洞城から飛騨松倉城に移して飛騨一国の統一に乗り出した。またこの年、長男の姉小路信綱に謀反の疑いをかけ殺害している。頼綱は内外共に武断政治を貫き、信長の部将佐々成政の上杉征伐に協力しつつ親上杉派の国人衆を次々と攻め滅ぼしていった。もっとも織田政権との関係は必ずしも安定していたわけではなく、天正9年(1581年)冬には織田側と手切(断交)状態にあるとの報が上杉氏の家老直江兼続にもたらされている。天正10年(1582年)、信長が本能寺の変で死去すると、かねてから敵対関係にあった飛騨北部吉城郡の江馬輝盛を飛騨の関ヶ原の戦いと言われる八日町の戦いで倒し、返す刀で元来姉小路家の宗家筋であった小島氏、さらに実弟の鍋山顕綱をも討滅、さらには江馬氏との戦いで功のあった牛丸氏や、その牛丸氏侵攻に従った同盟者である広瀬氏など、かつては味方であった勢力も含め、次々と他の国人衆を討ち滅ぼし、1583年頃には飛騨一国制覇の野望を成し遂げた。その後は家督と居城の松倉城を息子の秀綱に譲り、自らは北方の高堂城に居を移した。しかし彼が後ろ盾とした柴田勝家や佐々成政が羽柴秀吉との覇権争い(賤ヶ岳の戦い・富山の役)に敗れ去ると、秀吉軍の進攻は飛騨に及び、柴田勝家の旧臣金森長近の軍勢に、かつて滅ぼした飛騨の旧勢力の遺児(広瀬宗直・牛丸親綱)らが先導役を務めて加わり、高堂城を攻められて降伏した。これにより戦国大名としての姉小路氏は完全に滅亡する。秀綱など一族の多くは自害したが、頼綱は助命されて京都に幽閉され、天正15年(1587年)に同地で没した。

出典:wikipedia

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