根津権現(ねづごんげん)は、江戸の根津(現在の東京都文京区根津)にて神仏習合の様式で祀られたスサノオであり、十一面観音菩薩を本地仏とする。相殿に祀られた山王権現と八幡神と合わせて、根津三所権現とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、根津権現社(現在の根津神社)で祀られた。「根津志」によれば、「抑根津大権現往古勧請の年歴を知らず。駒込惣鎮守ニて千駄木村に鎮座し給ふ。神躰は素盞烏尊本地十一面観世音菩薩、 相殿二社山王大権現本地薬師如来、八幡宮本地阿弥陀如来、是を根津三所大権現と申奉る。中頃太田道灌入道持資の再興ともいふ。」と記されている。本殿のスサノオ(素盞烏尊)とともに、山王権現(山王大権現)と八幡神(八幡大菩薩)を相殿に祀った。江戸時代になると、天台宗の医王山正運寺昌泉院が神宮寺(別当)を務め、根津大権現の社は山王神道の権現社となった。甲府徳川家の徳川綱重(甲府宰相)の江戸根津屋敷で生まれた六代将軍徳川家宣にとって、根津権現は産土神となった。そのため、家宣が将軍世嗣に定まると、宝永3年(1706年)五代将軍徳川綱吉は、根津権現社を千駄木村から、徳川綱重の江戸根津屋敷跡に遷座し、現在は根津神社となっている権現造の社殿を奉建した。諸大名を動員した建設工事だったので、社殿造営は天下普請と言われた。徳川家宣とその実子の家継が各々六代・七代将軍として在職した時代には、徳川将軍家の崇敬を集めた。特に、正徳4年(1714年)9月21日に実施された例祭では、江戸城内に神輿が入ることを許されたため、天下祭の一つに挙げられた。やがて、紀州徳川家出身の八代将軍徳川吉宗の代になると、享保の改革とともに、例祭は公営から民営に切り換えられため、地味なものになった。明治維新による神仏分離・廃仏毀釈によって、山王神道に基づく根津大権現は廃された。当時の国家神道に基づいて、本殿にはスサノオ、大山咋神、八幡神を、相殿にオオナムチと菅原道真を祀る根津神社に強制的に改組された。江戸名所記(寛文2年/1662年刊)には、根津権現は不寝(ねず)権現であり、諸神の寝ずの番衆であろうと記された。
出典:wikipedia
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