留守氏(るすし)は、日本の氏族。藤原氏の一族に属する。源頼朝の奥州合戦後、陸奥国の留守職を務めた伊沢家景を家祖とし、家景の子・家元以降留守氏を称す。子孫は代々岩切城を拠点に活動したが、陸奥国内の大半が北条氏の所領となると留守職は次第に形骸化していく。南北朝時代においては、当初は南朝方として活動し、元弘3年(1333年)9月北畠顕家より陸奥諸郡の奉行に任ぜられたが、建武3年(1336年)1月に顕家が義良親王を奉じて霊山へ移ると、他の奥州諸勢力と同様に北朝方に転じた。観応2年(1351年)に観応の擾乱が勃発すると、留守家冬は足利尊氏方につき、岩切城に畠山高国を迎え入れて足利直義方の吉良貞家と戦うが、岩切城は陥落する。この敗戦によって留守氏は壊滅的打撃を被り、吉良方に加勢した国分氏に所領の多くを切り取られてしまった。これ以降、両者は宮城郡の支配権をめぐり長きにわたって争うことになる。のちに奥州探題大崎氏の介入を受けた留守詮家が切腹に追い込まれると伊達氏に救援を請うが、その代償として伊達氏から次々と養子を送り込まれ(14代郡宗・16代景宗・18代政景)、16世紀前半までには、次第に伊達氏の傘下へと組み込まれていった。天正18年(1590年)、第18代の留守政景は小田原征伐に参陣しなかったことから、奥州仕置によって留守氏は本領を没収され、以後は甥の伊達政宗に仕えた。文禄2年(1593年)、磐井郡二桜城主となっていた政景は、伊達姓を与えられ一門の家格に列した。この後、政景の家系は一関城主・金ケ崎城主を経て、寛永6年(1629年)政景の子・宗利が胆沢郡水沢城主となり、以降幕末まで同地を治めたことから、同氏は水沢伊達氏と呼ばれる。このため水沢伊達氏の歴代当主を、伊達姓に復帰した政景からではなく宗利から数える場合がある。なお、水沢伊達氏の所領を以て水沢藩と呼称することもあるが、これは亘理藩・涌谷藩・岩出山藩などと同様の俗称であり、一関藩のような正式な支藩(大名)ではない。政景の直系は第4代・宗景までで絶え、その養子として仙台藩主綱村の弟・村任が養子に入る。元禄8年(1695年)、村任が新設された中津山藩の藩主に就任すると、水沢領を涌谷伊達氏から迎えた養子・村景に譲り水沢を離れ、これ以後は村景の血統が当主を継ぐ。幕末の第13代・邦寧は慶応4年(1868年)の戊辰戦争敗戦にともない、水沢伊達氏領が仙台藩から没収されたため失領する。翌明治2年(1869年)に邦寧は旧姓に復して留守氏を名乗る。同年、居城の水沢城が胆沢県庁として使用されることになったため新政府に接収されたうえ、水沢伊達氏家中は陪臣であるからとして帰農を命じられ、仙台藩の士族籍を得られなかった。このため、士分を保つために家中一同そろって北海道開拓に参加すべきとの意見が出されたが、邦寧は病身のため極寒の気候に耐えられないであろうとの判断から仙台に残留し、吉田元俶・坂本平九郎が家中200名を率いて石狩国札幌郡に移住した。この時、水沢伊達氏家中によって拓かれたのが平岸村(現・札幌市豊平区平岸)である。
出典:wikipedia
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