成東城(なるとうじょう)は、千葉県山武市成東町にあった日本の城。当地に勢力を張った千葉氏の家臣印東四郎師常(南郷師常)により、応永年間に築城されたと伝わる。その後成東城は一時廃止されたが、享禄3年(1530年)、千葉勝胤により再興され、その子胤定が入り、成東八郎を称したと伝わる。天正18年(1590年)、小田原征伐の際に成東城も落城し、同戦役後二万石を以って成東に封じられた石川康通、青山忠成等が入城した。元和6年(1620年)青山氏が岩槻城に移封され、成東城も廃城となった。作田川右岸の独立丘陵上に占地し、空堀および土塁により大きく五つに区画されていた。主郭は愛宕神社が祭られる丘陵東端の郭と考えられ、台地に繋がる二方に土塁、堀が巡り、北西および南西に虎口が開く。主郭北西には二郭が設けられ、西側に土塁が設けられている。この二郭の土塁は南に伸び、主郭西方では主郭の土塁と合せ二重土塁を構成している。二郭の西方には空堀を経て三郭が置かれ、北西面に土塁が設けられ、西端は櫓台状に広くなっている。二郭および三郭の周りには、台地方面に空堀が巡る。また、三郭西方では主郭西方と同様堀が二重となっており、その内外側の空堀は北に伸び、台地を遮断していた。以上の三郭が主郭部であるが、台地北東端には複数の腰郭が設けられ、本行寺付近から主郭に至る城道を守る構造となっている。また、台地西端には横堀が巡り、台地全体に城域は拡がっていたものと考えられている。外郭部は宅地として開発され、三郭および二郭外側の堀を含む外郭部の遺構は失われたが、主郭、二郭、三郭、および腰郭が良く残る。また、台地西端に設けられていた横堀の一部が残る。
出典:wikipedia
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