若江三人衆(わかえさんにんしゅう)は、三好義継が若江城主であったころにそれを補佐した3人の家老。の総称。その筆頭は、池田丹後守教正である。はじめ三好氏に属したが、後に松永久秀に属し、久秀が信長に降った後は、これに同調している。1573年、三好義継が信長と敵対した際は、若江城に佐久間信盛の軍勢を手引きし、かつての主君・義継の敗死に一役買っている。義継の死後は、河内国の北半分を三人衆で統治した。対石山本願寺戦の大将である佐久間信盛の与力となっていた。茶道好きの佐久間の与力となっていたためか、3人とも津田宗及の記録にたびたび登場し、盛んに茶会に参加している様子が窺え、茶道に造詣が深かったとされる(宗及記)。摂津池田氏の一族とされるが、系譜は明らかではない。また、摂津池田氏には14世紀末の当主にも池田教正という人物がおり、楠木正行の子といわれる。その子孫が摂津池田氏であることから、氏祖と同じ名を後世の当主級でない傍系の彼が名乗ったとは思えないとする説もある。しかし、池田教正の「教」の字は遊佐河内守長教の偏諱とする説があり、摂津池田氏の通字である「正」の前に、拝領した「教」の字をつけた結果、教正という氏祖と同名になったという説もある。そのため、一般的には池田「丹後守」教正として区別する。また、キリシタン大名としても当時は著名な存在であった。キリスト教関連の史料には「イケピタフンゴノカミ」という音で表記されているが、これは池田丹後守(イケダタンゴノカミ)が宣教師などには前記のように聞こえたものと思われる。また、洗礼名はシメアンという。池田丹後守という名は、室町幕府13代将軍足利義輝が暗殺された際に襲撃者の一人として登場する。教正の経歴から、この池田丹後守は教正だと推測されている。本能寺の変後、池田恒興に仕え、小牧・長久手の戦いにも参加し、池田隊の先鋒に名が見える(太閤記・日本耶蘇会年報)。戦後、父兄の戦死により池田家の跡を継いだ池田輝政の美濃転封にも従っている。のち豊臣秀次に仕えて、文禄2年(1593年)に清洲奉行、木曽木材奉行を任命されている(駒井日記)。同4年(1595年)の秀次事件に際して、秀次自決の後に秀吉の命で処刑されたともされるが、その最期は詳しくはわかっていない。近江国の多羅尾氏とは無関係とされるが、その系譜には不明点が多く、本人の経歴も不詳である。また、多羅尾常陸介とする史料もある。諱は綱知とする史料もある。河内守護代を務めた。義継・松永久秀に与して三好三人衆と戦い、1566年山城国の淀城に拠るが、三人衆の攻撃により退去した。キリスト教をしばしば迫害し、宣教師からは大敵と呼ばれた。キリシタン大名である河内三箇城主・三箇頼照を信長に讒言し、危機に追い込んだこともある。同じ若江三人衆でも切支丹と反切支丹がいたことがわかる。天正8年(1580年)5月13日には綱知が平くも釜を茶会で使用したことが津田宗及の『宗及他会記』に書かれている。これは多羅尾玄蕃が落城した松永久秀の信貴山城から平蜘蛛釜の破片を集めて復元したものである。子に三好生勝(母は三好義継の妹)がおり、織田信長、豊臣秀吉に仕えた後、黒田長政の家臣となった。生勝の子孫は広島藩士となった。野間氏に関しては、摂津国の有力国人能勢氏の一族の野間氏が有名であるが、関連は不詳である。三好長慶、三好義継に仕えた。松永久秀の与力であった時期もある。それ以前は、河内国の守護代、遊佐長教の家臣であったとする説が有力であり、その説に従うと「長前」の「長」の一字は遊佐長教よりの偏諱だとされる。元の名は康久であったとされているが、野間康久という署名の入った文書は現存していない。発給文書の多くは、佐久間信盛や柴田勝家らと連名しており、織田信長の家臣として新参ながら、高い地位を保持していたとされる。長前は信長によって茶会を開くことを許された6人の武将の一人として、織田家重臣と肩を並べている(他の5人は織田信忠、明智光秀、羽柴秀吉、佐久間信栄、村井貞勝)。池田教正と義兄弟であったという(日本耶蘇会年報)。
出典:wikipedia
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