小諸藩牧野氏の家臣団(こもろはんまきのしのかしんだん)は、元禄15年(1702年)に、越後国与板の陣屋から、小諸城主に栄転して、明治4年(1872年)廃藩置県まで存続した小諸藩牧野氏の家臣団である。小諸藩主牧野氏は、三河国宝飯郡牛久保城主を発祥とする徳川譜代・越後長岡藩主牧野氏の完全な支藩であるため、その家風は、本藩を見習うことが定められていた。その家風とは、「参州牛久保之壁書」と呼ばれる"常在戦場・鼻を欠いても義理を欠くな"などを家訓として掲げたものである。以下は門閥諸士の盛衰を中心に解説し、全家臣団の概要を掲載する。小諸藩の門閥とは、まず第一に、家老の家柄であったことが確実で、小諸侯の譜代であり、小諸藩の首席家老(家臣筆頭)を勤めた履歴がある牧野氏(牧野八郎左衛門家と、牧野八郎左衛門家の分家である勝兵衛家の2家。牛久保以来の家)、真木氏(槇氏とも書いた時代がある。牛久保以来の家)、稲垣氏(牛久保以来の家)、加藤氏(牛久保以来の家)をあげることができる。ほかに家老の役職に3代連綿して就任したかは、置くとして、家老の家柄として3代以上遇された家としては、木俣氏(大胡以来の家・西暦1590年以降、1616年以前に家臣となった家)、太田氏(1616年以降に家臣となった家)がある。稲垣氏と、木俣氏は、罪があり、幕末まで家老の家柄を連綿していなかったが、上級家臣としては、存続していた。また太田氏と木俣氏は、藩主の先祖の発祥地である牛久保城以来、藩主牧野氏の先祖と共になかった家であるが、信濃国小諸藩に至った家系である。藩士の格式には、連綿する家の格式・序列と、役職上の格式・序列の2つがあった。時代の経過により、連綿する家の格式より、役職による格式のほうが重視されるようになっていった。世襲される家の格式・序列は、原則的には不変であっても、実際には非行・当主幼少・当主長期病身・末期養子・藩主内存(勘気や意向)・出奔・自殺・家内騒動・職務上の大失態・酒の上の大失態・不敬・引き籠り・抜擢・精勤・手柄・縁組などによって変動することがあった。小諸藩で重臣の家柄を連綿するとされた家の序列(家柄の格付け)は、次の通りである。世襲・原則固定であるはずの家柄も意外と変動が大きいことがわかる。連綿する家の格式・序列と、役職上の格式を明瞭に分けて、考えるようになったのは、享保年間から宝暦年間ごろに確立されたとみられるため、これ以前と以後については、序列を同じ歴史観で見ることは、必ずしも妥当ではない。小諸藩士であった先祖を顕彰するために子孫・遺族が建立したとみられる石碑・墓碑・建碑などが、長野県小諸市や東京都内にある。しかし小諸藩や徳川幕府の一次史料と、小諸藩士の子孫・遺族が主として、昭和期に書いた碑文の内容を比較すると、特に就任していた役職や、連綿する家の格式について、大きく乖離している事例が、少なからずある。ここでは特定の碑文を指すものではないが、例えば給人席の役職に就任していたものを、家老にあったとか、馬上資格こそ認められたが、引率できる従者が徒歩1名であった平士・平侍に過ぎない与板藩1万石の給人席に採用されたものを、「藩主牧野氏の客将」となったとか、小諸入封時に、家老に遠く及ばない役職・家柄であったのに、小諸入封時に家老であったとする記述。馬廻り格の家柄から、3階級特進の役職に抜擢を受けたに過ぎないものを、家老に登用されたとする記述。小諸騒動の混乱期に参政に抜擢されたものを、家老とする記述などがあげられる。これら一次史料から大きく乖離した史料学的に荒唐無稽な一部の碑文を参考にしての著述は、建立地に行けば誰でも査読はできるが、信憑性に極めて乏しいため、特に引用・紹介が必要な場合を除いて、ここでは外している。藩主牧野氏の檀寺は江戸においては幡随院、小諸では泰安寺であったが、信越本線開業と、小諸駅操車場建設に伴い泰安寺は廃寺となった。現在は小諸市荒町に所在の光岳寺を檀寺とし、同寺は藩主家累代の位牌を安置している。最後の小諸藩主で子爵となった牧野康民(康済の改称)は、浄土宗から神社神道に改宗し、神葬祭で葬られた。牧野康民の葬地は、長野県小諸市古城二丁目の南側隣地(長野県小諸市乙・境界未画定地)と、東京都台東区谷中七丁目の東京都立谷中墓地(乙8号10)の2か所に現存する。江戸で没した歴代藩主牧野氏夫妻と、江戸在住が義務付けられていたその家族(主に夭折した子供)の墓地群は、東京都台東区東上野四丁目24番の南部(現在の上野学園敷地内)にかつて存在したが、幡随院移転に伴い改葬となり合葬された 。在所における小諸家臣の檀寺は数か所に分散しているが、葬地が檀寺の敷地にある家は少ない。長野県小諸市の宗教法人懐古神社(宗教法人法にもとづく公示上の所在地は、同県同市丁本丸跡314番地)が所有する敷地内に、在所で没した歴代藩主牧野氏夫妻と、多数の小諸家臣の墓地群が存在する。これらの墓地は懐古神社崇敬会(通称、小諸士族会。あるいは単に士族会)の管理下にある。しかし、稲垣左織・倉地鎮司・小河銑十郎・天野藤吉郎など上級家臣であっても、同地に墓地を持たなかった事例もあるほか、小諸市乙の葬地のほか、檀寺の敷地との双方に、墓を持っていた小諸家臣も、存在するなど、細かく見れば、多様である。江戸在勤を連綿したことがある上級家臣(真木氏・稲垣氏・笠間氏など)は、江戸に藩主家とは異なる壇寺を持っていたほか、江戸で没した家臣も、やはり藩主の江戸における檀寺とは異なる寺院に葬られた。東京都内には、江戸時代以来の小諸家臣の葬地が、かつて少なくとも3か所以上に存在していた。三河国牛久保以来の家柄とは、三河国牛久保、上野国大胡、(越後国長峰)、越後国長岡、越後国与板を経て、信濃国小諸に、藩主牧野氏と共に、歩んだ家のことである。牛久保以来の出自(家柄)、または古包の家、牛久保以来の家とされるのは、次に掲げる14家から15家が確認できる。ここでは、明治元年・慶応4年を基準とする。この中に木俣氏は含まれない。もしくは、木俣氏に関してこうした記述を見て取れない。木俣氏に関しては、史料学的に牛久保以来の家でないことが確実であるため、「木俣氏の出自と、平成26年、小諸市乙に建立された木俣家石碑(碑文)」として、別に項目を立てた(「元禄から幕府滅亡・大政奉還までに、失脚した加判職就任履歴のある家系」に記載)。牛久保以来の家柄、古包の家、もしくは、これに準じる家は、次の通りである。1,牧野氏(八郎左衛門家)、2,真木氏、3,真木氏、4,真木氏、5,加藤氏、6,今枝氏、7,神戸氏、8,倉地氏、9,倉地氏、10,稲垣氏 11,稲垣氏(貢家)?、12,佐々木氏、13,石黒氏、14,山中氏 15,山本氏(金右衛門家)が、牛久保以来の家柄、古包の家であることが、確認できる(以上は、順不同であり、格式や新旧の順番ではない)。これに16,牧野勝兵衛(隼人進)の家、17,牧野蔀の家、18,加藤高の家が、牛久保以来の家と同姓一門とされ、これに準じた。11,稲垣(貢)の家については、史料が判然とせず、断定できないが、少なくとも牛久保以来の家と、同姓一門となることは疑いない。下士の19,山本保土里の家については、説明が膨大となるので、ここでは省略するが、牛久保以来の家柄に準じた。本藩である越後長岡藩では、その関係文書に、譜代の家と書いてあると、牛久保以来の家であるが、起源が新しく新参が多い支藩である信濃小諸藩にあっては、大胡以来の家であっても、譜代との記事があることがある。譜代の意味を正確に定義した文献は、残っていないが、長岡藩と、起源が新しい小諸藩では、若干、使い方が、異なっていたようである。木俣氏は、大胡以来の家臣であるので、大胡以来を譜代とすれば、当然に譜代である。小諸家臣の木俣氏を指して、藩主譜代の家臣といった意味の記事は、下記掲載の膨大な史料・文献の中には、存在しないが、大胡以来の家臣であることは、確実である(詳細は、後述)。20,山中氏、21,石黒氏、22,佐々木氏については、一度、浪人してからの再仕官組である。他藩に仕官したものが、転籍したり、郷士からの仕官などもあり得るが、個別の事情については、省略する。一般的には名跡とは、家督のことであるが、小諸藩では「名跡」という言葉を使うのは、士分たる家臣だけであった。「名跡」には、先祖が獲得した家柄・名誉・格式が、家名として一体となっていると考えられていた。特に小諸藩では、「名跡」という表現は、士分についてのみ語られ、家禄・持高と、土地の権利(給人地・屋敷の土地)が、これについてると解釈されていた。つまり小諸藩では、「名跡」と家督では、ややニュアンスが、異なった使われ方がしていた。士分の「名跡」には、家禄・持高・給人地が、世襲として、藩主の許可の下で、相続されていくものであるが、足軽以下が「家」を相続した場合は、これらが、ついていないからである。足軽については、屋敷を相続できる家系と、できない家系があった(詳細は、「士族に繰り上げ編入された屋敷持ち足軽と、卒分格式」として、別に項目を立てた)。士分ではない家臣については、姓(苗字)と帯刀は認めたが、「名跡」がないとの立場を、原則的にはとっていたので、士分ではない家臣については、家禄・持高、及び土地の権利(給人地)が、世襲としては、相続されなかった。この場合の収入は、俵取り・人扶持と標記された。士分であっても、家禄や持高のほかに俵取り・人扶持が併記されたり、足高が付いていることがあった。これらの収入は、士分であっても、「名跡」についているものでは、なかったので、世襲ではなく、1代限りが原則であるが、一部には既得権化したものもあった。「名跡」は、とりわけ、異なる氏のものが継承することで、その家名の血筋が変質する場合において用いられることもあった。その断絶を惜しみ、血縁以外の者が、「名跡」を継承して、その姓を名乗る場合があったが、小諸藩における例としては佐々木氏、牧野氏(外巻家)などがある。本家の家禄や土地が、分家に別けられているときは、その分家は、本家の名跡継承者としての権利があり、先祖の由緒を引き継いでいると考えられた。別家召し出し・新恩給付による分家のときは、新参として採用初代として扱われたが、本家とは、同姓一門としては遇されたので、議論の実益が少なかった。例えば、8,9,の倉地氏は、与板在封期には、1家であったが、小諸入封後に、分家を分出して2家となっているが、これは名跡を分与して立てられた家であるため、先祖の名跡を分家であっても、引き継いでいると解釈されていた。2,3,4の真木氏についても、事情は、大筋では同じである。17,牧野蔀の家は、16,牧野勝兵衛(牧野隼人進成聖の先祖)の家が持っていた名跡を分けて立てた家であり、別家召し出し・新恩給付ではないため、牧野勝兵衛家の名跡を分家であっても、引き継いでいると、当時は、解釈されていたはずである。また牛久保以来の家柄、古包の家柄とは言えないが、木俣氏と、鳥居氏には、名跡を分けて立てた家があった。明治初期に、旧来の陋習を廃そうと努めた藩政改革で、この別家召し出し・新恩給付のときは、「新参として採用初代としてカウント」されるいう慣習法が、維持された。議論の実益が少なくても、改革を叫んだ中で、維持されということは、当時の藩内では、採用何代目かと共に、名跡を分与されている分家か、あるいは分与されていない分家かが、強く意識されていたといえる。こうした旧態依然とした慣習が維持されたため、不利益を被った例をあげると、古参の家ではないが、例えば太田黄吉道教の家系は、家老の家柄の庶子として、別家召し出し・新恩給付で1家(給人格連綿)をたてたものである。しかし、2代目で廃藩を迎えたため、中士の階級で、しかも陽の当たるポストを歩み失脚した事実もないのに、下士の家柄とされた。また牛久保以来の家柄であった家老・加藤氏の庶子から、別家召し出し・新恩給付で1家をたてられた加藤高成高の家も、公議人に抜擢された給人格連綿の家であったが、廃藩時に2代目で、家柄は下士の家柄とされた。ほかにも、このような事例がいくつかある。中堅以下の士分で、分家を持っている場合は、そのほとんどが、別家召し出し・新恩給付であったと、みられる。牛久保以来の家柄、古包の家柄ほかに、藩主が側室や、身分の低い女性(お召し女)などと儲けた庶子を起源とする牧野氏5家が、藩内において、特別な由緒のある家とされた。これらの家の数は時代により変遷があるが、およそ27家(22+5=27)が、藩内で明確な基準として定められた「連綿する家の格式・序列」と、「役職上の格式・序列」という2つのヒェラルキーのほかに、さまざまな場面でこの事実(家の由緒)が指摘されており、何か事が、おきたとき配慮されていることが伺われる。士分とは異なり、足軽以下については、その先祖が長岡から随従している場合は、古参と称することもあったが、足軽は、1代採用が原則である(繰り返しの採用はあり得た)。小諸藩には、大胡以来を自称する足軽も存在した。当主に跡取りがないまま死亡した場合は、厳科に処されたことは、江戸時代の武家社会共通の掟である。家臣にあっては跡取りが登城年齢以下の幼少で、当主が死亡したり、隠居した場合も、末期養子と比較すれば軽くは済んだが、やはり懲戒事由となり減石となった。全国諸藩の藩主にあっては当主の幼少は、後見を添えることはあっても、減石対象にはならなかった。重臣にあっては、当主幼少の減石処分は必須とは言い難いが、小諸藩においては、ほぼ必須のものであったといえる。小諸藩では享保6年(1721年)、牧野八郎左衛門家の相続から、当主の幼少だけでなく若輩も、減石記事が見られるようになった。当主が登城年齢以上ではあるが、若輩による減石は、後に埋め戻されたが、おおむね7才未満の登城年齢以下の者が幼少当主となると、連綿する家の格式そのものに響いた。この原則は明治維新まで続いた。小諸藩の家中(かちゅう)には、家の格式として家老・用人・番頭・取次・給人・馬廻・徒士・足軽・中間の階層があり、原則として50石・給人格以上が馬上になれる資格があるとされた。また前任地の与板では当初には用人が、設置されていなかった。小諸藩では、用人は、加判の列(重臣)であることが、特徴的である。本藩の長岡では、用人は特別な格式を持つ家臣が就任した場合を除き、番頭より格下である。小諸入封から、享保年間以降に足高の制が導入されるまでは、抜擢人事の場合は加増があったほかは、家柄により家禄は、ほぼ固定されていた。例えば家老の家柄の当主が若輩者のため、役職が側用人であっても、家老本職に就任しても、支給される俸禄には、ほとんど変化がなかった。小諸入封後に家臣も、加増の恩恵を受けて400石以上の家臣が、まもなく3家誕生している。これらの石高は、給人地も換算して、数値に組み入れたものである。給人地・持高・役料・足高からなっていた。例外的に人扶持が併用されていた士分たる家臣も存在した。また採用初代の家臣は、持高が支給されず籾米の支給となった家臣もいた(経済的には実質、同じことであるが、仮採用的な意味合いや、世襲家禄として認めるか否か保留の意味合いがある)。給人地が家の格式に応じて、支給されていた。給人地は主として畑として運用された。家の格式が変動しない限り、給人地の面積は世襲されていた。家老(82.2畝)、用人(65.6畝)、番頭(52.4畝)、取次・給人(39.3畝)、馬廻(32.8畝)、徒士(26.2畝)であった。小諸藩では、者頭・物頭・徒目付を連綿する家の格式としては、設定されていなかった。中小姓については、別に説明がある。給人地は、家の格式に応じて、一律に定められたが、持高は、同じ家老の家柄であっても、例えば230石もあれば、227石もあるというように、差があった。幕府の足高の制と、本藩である長岡藩の宝暦の制の影響を受けて、小諸藩においても、足高の制が導入された。家の格式に応じて定められていた持高より、高い役職に就任した場合は、役高支給基準と、持高との差額を足高として支給するという制度である。つまり持高が250石未満の者が家老職となった場合には、その不足分を足高として支給するというものであったが、例外も散見され絵にかいた餅のようであった。役高支給基準として、家老(250石)、用人(180石)、番頭・者頭(160石)、取次・給人(85~48石)、馬廻り(45石)、徒士(40石)とする大雑把な基準があった。小諸藩の持高は、家の格式に応じて支給される世襲家禄に近い性格を持っていたが、無役であると持高とはいえ減石の対象となったので、持高が完全な世襲家禄とはいえない側面もあった。一方では幕府の足高の制では、無役の旗本には、小普請金などの名目で課徴金を徴収して実質的に減石としたが、形式的には世襲家禄の減石処分を行っていなかった。他方、小諸藩の場合は、無役のときは、持高の減石処分に直接、踏み込んでいた。無役のため減石された後も、比較的高い俸禄を受けていた例は、小諸騒動の時期を除けば次の3例が確認できる。第1に真木兵橘(真木権左衛門家)が、化政期、病身で長期無役となったとき持高を170石に減石された。第2に牧野須磨之丞(牧野八郎左衛門家)が、寛政期、父に罪があり縁坐によって、懲罰を受け無役となったとき持高を150石に減石された。第3に牧野勝兵衛(牧野八郎左衛門家の分家)が寛政期に病身で無役となったとき持高を150石に減石されたが、この事例では、惣領が部屋住み身分で召し出しを受けて、相応の出世をして俸禄を受けていたので、前2者の減石とは、やや性格が異なる。9代藩主康哉が登場してからは、家の格式に応じて支給する持高と、役職に応じて支給される役職給とに明瞭に分け、足高支給は限られた例外に留めるようになった。家臣の持高制を定めることに成功したのは、9代藩主康哉の治世より、かなり前の文化年間以前であることは、確実であるが厳密には特定できない。当初は重臣だけが持高を定め、やがてすべての家臣の持高が定められた。小諸惣士草高割には中小姓という役職は見て取れるが、中小姓という家柄・格式は存在していなかった。しかし、その後の各種文書によると中小姓格という格式を記述した文書が珍しくなくなるため、格式の成立は不詳であるが、馬廻りと、徒士の中間に中小姓格という格式が設定されたものとみられる。但し連綿する家の格式として設定されたかは、確実な史料がない。役料は、9代藩主による制度改革が行われるまでは、江戸留守居役など、公費として請求しにくい職務上の経費が多い、ごく限られた役職だけに支給された。9代藩主康哉が、導入した新たな俸禄制度は、家柄に応じて支給した持高を低めに抑制して、その役職に就任期間中だけに支給する役職手当を高め定めたものであった。足高の制とは異なる「持高プラス役職手当」を定めたことは、本藩長岡藩には見ることができない支藩小諸藩における画期的・合理的な制度であり、有能な人材を登用しやすくなった。従来の役職手当は不明瞭で、同じ役職に就任しても、家臣によって、役職給が異なることも散見されていたが、9代藩主康哉は、家老手当は100石(江戸詰めには130石)、用人手当は80石(江戸詰めにも80石)などすべての役職手当てを明文化した。役職手当ての整備に伴い原則固定である世襲持高は減石され、家老連綿の家柄は、150石から230石、同じく用人連綿の家柄は120石から135石、同じく番頭連綿の家柄は100石から115石とされた(以下、省略)。これに家の格式ごとに従前通り、給人地が給付されていた。但し、大政奉還・幕府滅亡の前年である慶応3年、牧野隼人進成聖は、約1年間だけ持高250石となった。このほか原則として、下級士分以下には、人扶米を支給した(下級士分の一部と、足軽以下には、9代藩主による改革前から人扶米は支給されていた)。人扶米は、出仕しなければ支給されなかった。例外的に、加恩的な意味合いで、中堅士分の数家に、人扶米が支給されていた。また引き籠りの性癖・もしくは病気があった上級士分の本間氏に対して、出仕を促す意味で、人扶米が支給されたことがある。それが、本間氏において、後に既得権化したと見られる。小諸家臣の持高には、給人地分が含まれておらず、連綿する家の格式が同じ家臣であっても、持高には、差が設けられており、同じ家柄であっても、さらに持高によって序列が細分化されていた。家禄から持高を抽出して、別途記載がある分限帳は、6代藩主康長の治世期(1800年~1819年)である文化年間に登場する。持高のみを表記した分限帳は文化年間以前のものも存在する。6代藩主康長の治世に成立したとみられる小諸惣士草高割には、ほぼすべての家臣の持高と足高が掲載されている。史料を基礎にわかりやすく調整すると、次のようになる。持高200石以上の家臣は、6家(牧野八郎左衛門家の分家である牧野勝兵衛家307石・槇227石・木俣227石・河合200石・太田200石・牧野八郎左衛門家200石)があった。これらは、あくまで持高の数字であるため、給人地分込みで考えると、牧野勝兵衛家のみが実質378石で、四捨五入すれば400石級といえる家臣であり、槇・木俣・河合・太田・牧野(八郎左衛門家)は300石級家臣であった。小諸入封後に、給人地分込みで400石以上で遇された家老連綿3家の真木・牧野(八郎左衛門家)・加藤は、このとき400級家臣とは言えなくなっていた。持高100石以上200石未満の家臣は、13家(鳥居・加藤・本間・倉地・村井・槇分家2家・木俣分家・藩主牧野の分家である牧野求馬家・笠間・神戸・稲垣・古畑)があった。これらの諸士は、おおむね250石未満から、150石以上の200石級家臣といえる。首席家老を勤めたこともある稲垣(稲垣源太左衛門家)は、藩主の内存により小諸惣士草高割成立前に改易・取り潰しとなっていた。同氏は減石・格式降格の上、名跡再興となっていたため、この時点では持高62石であった。持高100石以上の稲垣は、維新期の少参事・稲垣左織(稲垣貢家)の直接の先祖であり、家老職を勤めた稲垣とは、同族であるが別家系である。またマキは小諸惣士草高割には真木ではなく3家とも槇と記述されている。持高67石以上100石未満の家臣は、20家(佐々木・木俣分家・藩主牧野の分家3・高橋・高橋・高崎・高栗・天野・伊藤・山本2・山村・小川・小河・糸井・西岡・今枝・宮嶋)があった。持高67石に、この格式で受ける給人地を換算して合計すると100石と見ることができ、持高67石の家臣は実質的に世襲家禄100石の家柄といえる。藩主牧野の分家である牧野3家のほか、半端な数字の67石に多くの家臣が並んでいるのは象徴的である。これら20家で化政期以降から大政奉還までに、もっとも大きな変動があった家臣は宮嶋と山本である。文政12年(1829年)、宮嶋は多額の不明朗な経理疑惑の責任を問われて、暇を命じられた(改易)。分家も懲戒処分を受けたが最下級の士分である徒士(かち)として存続し、幕末近くの文久年間には、地下代官(じかだいかん。小諸代官ではなく出先機関・徴税機関としての代官所の代官)などをつとめて、維新期に士分下禄に列した(宮嶋分家の9代藩主による改革後の持高18石・徒士格)。宮嶋惣領家は廃藩まで40年以上あったが、帰参・名跡再興はなかった。山本(山本弥五左衛門家)は当主の一身上の非行・不行跡(城中での戦慄な行為)があり改易・取り潰しとなったためか名跡再興がなかった。また小諸惣士草高割成立前後の分限帳から推して、牧野勝兵衛家の分家(牧野蔀家)と、成瀬は持高67石以上の格式があったとみられるが、小諸惣士草高割には掲載がない。当主が幼少で、召し出されていなかったか、あるいは病身で出仕していなかった可能性がある。同じく藩主牧野の分家の一つである牧野外巻家も記載がないが、小諸惣士草高割成立時には、まだ家祖が家臣取り扱いになっていなかった。英主といわれた9代藩主治世期には、下級家臣を除き、その持高が、家督相続時に小幅ではあるが軒並み減石されている。役職手当が増額整備されているため改革による減石処分とみられる(減石時期が異なる一次史料も現存)。小諸惣士草高割の成立から20年近く経過した9代藩主治世初期(1832年~)を基準に、与板立藩以来、家老職を繰り返し勤めた7家の持高をみると牧野(牧野八郎左衛門家)200石、牧野(牧野八郎左衛門家の分家である勝兵衛家)307石、真木200石、加藤227石、木俣130石、太田180石、稲垣50石である。牧野(牧野八郎左衛門家の分家である勝兵衛家)は、307石ではなく230石(但し慶応3年から約1年程度、250石)とする史料も存在するほか、稲垣は、9代藩主治世期に罪があり、さらに35石に減石された。ここでいう稲垣は、維新期の少参事・稲垣左織の直接の先祖ではなく、稲垣此面の直接の先祖である。9代藩主治世期に、役職手当が増額整備された後は、牧野(牧野八郎左衛門家)、牧野(牧野八郎左衛門家の分家・勝兵衛改め隼人進)、真木、加藤、太田以外で、150石以上の持高を支給された家臣は、大政奉還・廃藩まで一家も現れなかった。これら5家が維新期、家老の格式を連綿する家柄であった。同じく9代藩主治世期の嘉永6年頃には、本間、村井、佐々木、鳥居、倉地、木俣、河合には、家老の家柄5家に準じる120石~135石の持高があった。また9代藩主治世の後期に笠間が持高120石となった。佐々木を除くこれら7家が維新期、用人の格式を連綿する家柄であった。佐々木は嘉永年間から安政年間にかけて、2度に渡る失態があり、持高80石・奏者格まで格式を下げていたので、維新期には用人格連綿の家柄ではなかった。小諸惣士草高割の持高と、改革による役職手当増額整備後の持高を比較した場合、当然に減石されている例がほとんどであるが、中には変化がない家臣や、加増された家臣もあった。9代藩主によって抜擢されたり功労が認められた家臣は、持高を加増されたとみられるが、改革による減石と、功労による加増が相殺されたことで、小諸惣士草高割の持高と、9代藩主治政期の持高に、ほとんど差がないこともある。つまり差がないということは、実質的に加増である。例えば牧野(牧野八郎左衛門家)200石は、持高に変化がなかった。小諸惣士草高割成立前に、当主の死後に養子を立てて家名存続を願い出たり、独断で借金をして藩財政に打撃を与えたことによる懲戒処分で、格式を下げていたが、その後、2代にわたる功労で、僅かずつではあるが2~3回に渡って、班を進め不完全ながら格式の回復を認められたからである。小諸惣士草高割成立当時より加増されている主要家臣は、加藤と佐々木の2家が代表例である。加藤は小諸惣士草高割成立前に、末期養子を立てる失態があったうえ、小諸祇園祭りでの不祥事で格式を下げていたが、加藤成徳の家老在職1代の功労で格式の回復がほぼ認められた。また佐々木は小諸惣士草高割成立前に牧野求馬等と共に、非行・不行跡を繰り返して持高減石・格式降格となったが、当主交代後の小諸惣士草高割成立以降に、精勤により班を進め短期間ではあるが家老準席に抜擢されたためである(しかし安政年間に再び失態により失脚)。そのほか用人格未満の家でも数例が加増されており、これらの諸士は実質、大加増といえる。小諸惣士草高割の持高と、改革による役職手当増額整備後の持高を比較したとき、その減石幅が、同僚・同格の諸士より、大きな重臣は、木俣(227石から130石に減少)と、河合(200石から120石に減少)である。家老の家柄となっていた木俣は繰り返し懲罰を受け、家老の家柄を取りあげられたためである。また家老本職・家老準席に抜擢され、これを勤めあげた河合の先祖は、与板在封期に家禄100石に過ぎなかったが、歴代が順次班を進めたほか、小諸入封後に洪水の被害状況をつぶさにまとめた文書を残した者を出した。家老職に、初めて班を進めた河合氏当主は、家老の格式をも得たが、その惣領は、小諸藩江戸屋敷の門限を破り、塀を乗り越えて邸内に忍び込んだところを捕まったほか、これとは別件で、職務怠慢により藩主の怒りに触れて持高減石・格式降格・閉門・謹慎の懲戒処分を受けたため、笠間が用人格に昇格となるまでは、用人格末席の格式(持高120石)となっていた。懲戒処分を受けた若き河合は、反省した上で精勤し、段々と立身して、用人・加判職に就任した。しかし持高を、失脚前と同じに復すことはできなかった。その後、代替わりした河合は、沈んだままに近かった木俣(重郎右衛門・多門家系、小諸における惣領家)とは異なり、幕末近くに用人・加判等の要職に、再び就任して、連綿する家の格式・持高までも、やや回復した。藩主(総大将・城主)を補佐する最高の役職。当藩では城代家老が首席家老とは限らず、江戸家老が首席家老となるということも、珍しくなかった。これに対して本藩である長岡藩(藩主牧野氏)では、家老の中でも、序列が低いものが、江戸家老に就任することが多く、家老首座や家老次座が江戸家老職を勤めるということは、あり得なかった。長岡と小諸では、ともに城持ち大名でありながら、江戸家老・城代家老の地位が対照的である。享保年間ごろ、400石級以上家臣であった牧野八郎左衛門家が、当主死亡時に男子がなく、加藤六郎兵衛家が末期養子となり、真木権左衛門家は家を分けて、真木九馬左衛門家と、真木水右衛門家の計3家となったことで、他氏を圧する重臣が存在しなくなった。享保年間以降は小諸藩の家老職は、有力諸士の交代に近く、家老の家柄の者が、相当年齢となり、欠員が生ずると優先的に家老職に就任していた。家老定員は3名であるが、4名置かれることもあった。家老の家柄でなくとも、先代までに番頭職以上にあった上級家臣の家系出身者で、抜擢家老に就任した例もある。本藩である長岡藩(藩主・牧野氏)のように、家老上席の家柄の当主であれば、筋目・家柄を尊び、幼少であっても登城年齢に達していれば、家老職に就任させた事例があるが、小諸藩では家臣筆頭クラスの家であっても、子供の家老職登用は見当たらない。藩主・牧野氏が与板に、長岡の支藩として分地されて立藩して以来、幕末までに家老連綿の家柄とされたのは、牧野氏1(牧野八郎左衛門家)、牧野氏2(牧野八郎左衛門家の分家である勝兵衛家)、真木氏(真木権左衛門家)、稲垣氏(稲垣源太左衛門家)、加藤氏(加藤六郎兵衛家)、木俣氏、太田氏があるほか、与板在封期には、倉地氏、野口氏が家老職を勤めていた。中でも倉地氏が与板立藩時の家臣筆頭であった。しかし、倉地氏は、前任地の与板在封期に1代限りで本藩である長岡藩に帰参した(小諸家臣の倉地氏は、この庶流となる)。倉地氏惣領家は本藩・長岡からさらに転籍して、子孫は三根山藩牧野氏の永代家老となった。野口氏は、陰謀または権力闘争に敗れて、前任地で改易となり、分家は召し放ち(解雇)となるという徹底的な排斥を受けた。また稲垣氏は、小諸在封期の文化元年(1804年)改易・取り潰しになり、のちに減石・格式降格の上、名跡再興となったので、以後は稲垣氏から家老職に就任した者がいない。小諸家臣木俣氏の家祖は、長岡家臣・木俣渋右衛門家(家禄100石)の弟に過ぎなかったが、兄の遺児が幼く、一時家督。その後、与板に随従して、1代で与板藩家老職に栄進、抜擢された。仔細があっての抜擢であったようであるが、いきなり家老連綿とするには、筋目・家柄が不足していたものとみられる。しかし、与板藩家老職の野口氏が、改易・取り潰し後、家老職に木俣氏(与板・小諸家臣となった家系の2代目)が、またしても抜擢されているため、野口氏の蹴落としに大きな功績があったものとみられる。与板藩重臣のうち倉地氏は本藩帰参、野口氏は改易・取り潰しで2家が消滅した。これに木俣氏(木俣重郎右衛門家2代目)が家老就任後まもなく、病気のため致仕。比較的若くして隠居となり、その後は木俣氏(木俣重郎右衛門家3代目)当主の幼少・病身が続き、家老とは離れた席次となり、小諸入封時も重臣ではなかった。このため重臣の人材が不足して、長岡の重鎮に連なる一族からの家老職登用が見られた。まず真木(槇)氏が前任地の与板在封期に家老連綿の家柄となった。ついで小諸移封後に、稲垣氏と牧野八郎左衛門家の分家(牧野庄兵衛正長を祖とする家<勝兵衛家>・すなわち牧野隼人進成聖の家系)が家老の連綿の家柄となったが、中でも牧野八郎左衛門家の分家は安定期としては珍しく、抜擢の幅が大きなものであった。享保期には、前述の牧野八郎左衛門家の分家である牧野勝兵衛家のほか、大胡・長峰在封期には、藩主牧野氏の家臣ではなかった太田氏が家老職に登用されて、家老の家柄となった。寛政期以降になると、1代に限り家老職に抜擢される者も、次第に珍しくなくなっていった。寛政期、藩主牧野康周の庶子で、藩主目代となった牧野康那が、若輩の藩主を補佐した功績により、藩主家から分家して家臣取扱となって、家老上席に就任した。しかし仔細あって家老連綿の家柄にはならず、家老職という職名に就任したのは、家祖の1代限りであった。また維新期の小諸騒動のとき、この家系から出た牧野求馬成賢は、自分たちに反対する4名の小諸家臣を、藩主に虚偽の報告をして斬首した件に直接関与した。斬首執行後に家老相当の重臣に抜擢されたが、在職期間は短くその罪が責められて禁固刑となった。木俣氏(重郎右衛門・多門家系・小諸における惣領家)が、宝暦期から化政期にかけて再浮上したが、不祥事を繰り返して失脚。減石処分を重ね文政年間を最後に家老職に、そして天保年間を最後に加判職や、番頭職に、2度と就任することはなかった。また幕末・維新の動乱期にあった薩摩藩・長州藩のような下級藩士からの重臣の登用は、小諸ではなかった。もっとも幕藩体制の安定期ではあるが鳥居氏(家禄50石)は、藩主嫡子が他藩から養子入りしたとき、これに随従した寵臣であり、有能であったので、抜擢家老となった説明している刊本が存在する。しかし、この刊本が出典・根拠としている一次史料(古文書)には、こうした記述は存在せず、まったく別の由緒が書かれている。もっとも鳥居氏の2代目は、給人から、用人・加判職(重臣)に抜擢されている。小諸藩の家老職の俸禄については、時代と分限帳によって記載の仕方が異なる上、給人地(農地)の給付も行われていたため、一義的に論じることは不可能である。家禄が400石以上であったことが一次史料に明記された家臣は3家(牧野1・真木1・加藤1)が確認できるが、いずれも享保年間までに消滅した。消滅の理由は、直接的にはそれぞれの家の事情と、標記の変更によるものである。標記の変更とは、給人地を家禄として換算して表に出さなくなったということである。時代は下り、享保年間以降になると、牧野八郎左衛門家の分家である牧野勝兵衛家系も、班を進めて、実質400級家臣となり、化政期の牧野勝兵衛成章を例にとると、最高時に持高307石+給人地82.2畝69石+家老手当制度ナシ=378石、そして幕末・維新期の牧野隼人進成聖を例にとると、最高時、持高230石+江戸家老手当130石+給人地82.2畝69石=429石となっていた。牧野隼人進成聖が持高を250石とされた期間がおよそ1年あるが、この期間は在所家老であるため家老手当は100石であり、実質419石であった。この家系は、給人地を家禄に換算しない標記になった後に、立身した家系であるため、家禄400石以上であったと明記した一次史料は、当然に存在しない。ほかに稲垣氏が、家禄320石と、給人地の合計で実質家禄389石となり、四捨五入により400級家臣となったといえる。家老の公式収入を細かく検討すると、家老の家柄で家老職に就任すると、小諸入封前は、実質200石台前半、小諸に加増入封数年後から、享保年間初期以前は実質400石台前半(小諸に加増入封の翌年は300石台後半)、享保年間以降から、小諸惣士草高割成立前は、実質300石台前半から、300石台後半、文化年間初期の小諸惣士草高割成立時から9代藩主による改革までは、実質319石から378石、9代藩主による改革後は、実質319石から429石である。幕末までに、重臣の家は、分家の分出や、牧野康哉の改革などにより、牧野康周分限帳の成立したころと比較して、いくらか俸禄が小ぶりになっていることは、否めない。一部の解説によると、幕末の小諸騒動前半に関連して、「特に加藤成美の処分は根深く、最も恨まれたと見え、蟄居と面会制限、城下屋敷の没収が言い渡されました。当然ながらこうした 処分に不服な彼等は長岡藩へ訴えました。今回の小諸藩の騒動を懸念した長岡藩は、河井継之助を派遣して調停を図ることにしました。そして結局全ての家臣の処分を無効にし、牧野成聖は何ら加担しなかったことから逆に加増されました。この騒動の最中に牧野成道、太田宇忠太、真木則道が家老に就任しており、小諸藩では1万5千石の小大名ながら5人の家老が存在することになりました。さらにこれ以上争いが起こらないように、次男の康保を岡崎藩(愛知県)本多家へ養子に出すことが決まりました。」とあるが、牧野成聖は、上記にあらわした数式にあるように、減石されたとも解釈することも可能であるため、微妙である。またこの解説者が、複雑な小諸藩の俸給制度を知らずに、刊本のうわべだけを、まとめて出した結論の可能性も排除できない。「小諸藩牧野氏の家臣団」の解説は、小諸市立郷土博物館蔵の一部、史料とは、食い違うところがある。浅間焼覚書帳は、18世紀、小諸与良町(現在の小諸市与良)在住で、小諸藩士以外の人物が著述したものある。浅間山噴火後の被害や、穀物の価格推移などが詳しく記載された貴重な史料であるが、少なくとも、小諸藩重臣人事に関しては、小諸藩の各種史料・文献と異なるところがある。また同書は誤字・脱字が多い。詳細は「浅間焼覚書帳」を参照のこと。幕末の小諸騒動の時期を除き、家老職が4名置かれたとき、最も格下の家老が、家老準席と呼ばれた。伝統的な門閥出身者で家老準席に就任した者は存在しない。河合、佐々木などが就任した例が確認できる。家老準席を経て家老本職に就任することもあった(伝統的な門閥出身者ではない村井、本間、鳥居については、家老準席を経て家老本職に就任したかは不詳)。家老準席と、勝手方総元〆は、共に非常置の役職であり、家柄や家老定員の都合で、家老職に就任させることができない者を就任させた。財政・民政上の責任者は、多くの場合は勝手方家老(若しくは国家老)であるが、例外的に勝手方総元〆がこの役目を担った。総元〆職を兼帯する用人・加判は、準家老級もしくは、用人首座級であり、元〆職は給人席である。格式が大きく違う役職なので、混同しないように注意が必要である。藩主牧野氏の与板立藩(1634年)から小諸入封を経て、幕府滅亡の大政奉還(1868年)までに家老就任履歴がある家は次の通りである。()内は何代にわたって家老職を勤めたかを現す。隠居再勤により一人で家老職を2回勤めた場合と、家老準席を経て家老本職に就任したときは、合わせて1代(1回)と数えている。徳川幕府滅亡後(大政奉還後)に家老職または家老相当の役職就任したものは、カウントしていない。また勝手方家老に就任した者は、当然カウントしているが、勝手方総元〆たる加判は、実権が家老並みであったとしても、カウントしていない。太字は首席家老(家臣筆頭)に、徳川幕府滅亡(大政奉還)までに1代以上就任した履歴のある家である。牧野八郎左衛門家(家老職8代。20歳で死亡した当主1代以外はすべて就任)。同分家牧野隼人進(勝兵衛)家(分家4代目から5代家老職連綿)。真木権左衛門家(家老職7代。初代と病身の当主1代の計2人以外はすべて就任)。加藤六郎兵衛家(家老職6代。一時期家老の家柄から外れる)。稲垣源太左衛門家(家老職4代。改易後名跡再興あり)。倉地家(家老職1代。初代で長岡帰参)。野口家(家老職1代、改易後名跡再興無し)。太田家(家老職3代)。木俣家(家老職4代)。本間家(家老職1代)。藩主康周・庶子を家祖とする牧野求馬家(家老職1代)。村井家(家老職1代)。河合家(家老職1代)。佐々木家(家老準席1代)。鳥居家(家老職1代)。加判は、連署の地位にあり、藩主を補佐する最高機関である会所における評定の構成員であり、小諸藩重臣である。連署・加判役の意義は藩主の署名に副署できる職権を持つことである。加判役は家老職、家老準席、家老職見習い、用人職、用人職見習いのいずれかと兼務するのが通例であった。小諸藩では、番頭や三奉行(勘定奉行等)は加判ではなかった。用人は、家老の補佐役であるが、実務の実質的な責任者である。家老を大将として出陣したときは、その副将を勤める。小諸藩では用人の職権が非常に細かく定められていた。お目見得以上の家臣からの諸事の届け一切は、番方(軍事・警備部門)・役方(行政部門)問わずすべて用人が受理した。小諸藩では用人職は、家老に次ぐ重臣で、用人の家柄の者から選ばれたが、家老の家柄の者が、家老職に就任する前職として、用人職に就任していた。用人の家柄でない者でも、能力や贔屓により用人職に抜擢されることがあったことは、家老職と同じである。小姓の士は、与板在封期には、馬廻り(家老の配下)とされていた。年月不詳で、やがて用人の配下に移管となったが、一時的に小姓の士は、馬廻り(家老の配下)に戻されたときもあった。従って、小諸藩には、徳川幕府でいう御小姓組頭という役職は存在しないが、これに相当する職務を、用人・加判のうち、1名が兼帯していたことが、多かったことになる。天保年間初期(8代藩主治世の末から、9代藩主治世の初期)を基準とすると用人の家柄としては、本間氏、佐々木氏、村井氏、倉地氏、河合氏、鳥居氏、古畑氏の6家があったが、もちろん時代により変遷がある。天保期に用人の格式にあった家は、倉地氏と古畑氏以外、すべて小諸藩家老職・若しくは家老準席の就任履歴があった。与板在封当時、100石未満の家柄であった鳥居氏、村井氏などのように、数代をかけて班を進め、用人の家柄まで登ってきた家系もあれば、逆に与板藩主・牧野康道の治世では、100石を超える家柄であった小川氏、諏訪氏のように家の格式が、大きく下がってしまった家系、そして木俣氏のように、天保年間後期に、家老の家柄から転落して用人の家柄となった事例もある。家老職に就任経験のある家であっても、家柄が用人格の場合は、9代藩主の治世から持高135石以下とされた。用人の家柄で、用人職に就任すると、持高と役職手当の合計で200石から215石が標準的であった。ほかに55石に相当する給人地分の収入があったので、実収入は250石を越えた。江戸武鑑や大武鑑には用人と側用人が、用人として一括記載されているが、格式や職権はまったく異なる。また藩主牧野氏の与板藩や、小諸藩には、客将というポストが設置されたり、客人分を「将」として扱った(あるいは遇した)とする一次史料は存在しない。明治初期に、藩政制度が解体される前に、小諸藩から選出(藩主による指名)された国会議員のこと。公議人は1名である。公議所に全国諸藩の公議人が、召集されたときは、小諸藩では、加藤・牧野求馬派が藩政を牛耳っていた僅かな期間と重なるため、明治2年9月、同派が失脚すると、現職公議人が、投獄となったため、公議人は交代となった。御城使を兼務する。幕府・諸藩との渉外窓口であるほか、江戸家老が在所に戻っているときは、江戸屋敷の最高指揮官となる。諸藩の留守居と特にかわるところがないが、小諸藩では番頭に準じる役職であるほか、小諸藩は長岡藩の支藩であるため一次的な事務連絡は主に、江戸留守居を通じて行われていた。このほか情報収集・先例・旧格(儀式・儀礼を含む)の照会を行うのも重要な任務であった。添役は留守居役の副官。小諸藩の番頭は、足軽番頭(=足軽を支配する番頭)であるとしている著述も存在するが、時代により変遷があるため、各種著述物の説明に混乱がみられる。与板立藩当初は、番頭は足軽組の総支配を行っていた。その後、歩行頭(御徒士頭=おかちがしら)たる番頭と、足軽組総支配たる番頭に分かれた。番頭が足軽組の総支配だけを行っていたときは、別個の役職として歩行頭が存在していた。徒士を支配する番頭と歩行頭は、実質的に同じ役職であったかについては、詳細の記述は省略するが、番頭のほうがその職権が、若干大きかった。小諸入封後における番頭の職権は、銃士隊を含む徒士組を支配していた(藩主の行列・行軍時の前衛歩兵隊、及び藩主外出時の先遣歩兵隊に相当する士(小十人の士)を配下にしていた)。本陣備えの銃士隊長は番頭の職務である。但し、小十人という役職が、小諸藩では設置されていたことは確認ができない。小さな藩であったため、小十人組頭に相当する役職は、番頭の職権に含まれ、小十人の士に相当する役職は、徒士や徒目付の中で、序列が高い者や、年功者が配属されていたとみられる。徒士主任ともいえる徒目付は、大目付・中目付の配下ではなく、番頭の支配であった時期もある。徒目付は、役職名であり、徒目付連綿という家柄・格式は、小諸藩には存在しなかった。徒目付が領内や、藩主外出先の情報収集や、諜報活動を行っていたかについては不詳。玄関番は、番頭(時代によっては歩行頭)に支配された徒士や徒目付が担当した。進物を受け取るのは、玄関番の仕事であるが、物資の運び込みは、玄関・勝手口までは中間組、それより中は、城中に入れる格式・家柄を持つ一部、足軽の職務である。検品については、大目付・目付・処刑制度の項目を参照のこと。進物を藩主の面前で披露するのは、徒士を支配する番頭や、藩主牧野氏の進物授受を管理する側用人ではなく、取次(奏者)であった。進物は、側用人がその記録を管理して、各種物品は、小納戸によって在庫されたり、適宜各所(例えば料理方)に引き渡された。職制に、足軽組を総支配する物頭支配が誕生してからは、足軽組総支配を行う番頭は、廃止された。足軽組を総支配する番頭は、士分である物頭を配下に持ったが、侍大将と呼ぶには、やや無理があることは、言うまでもない。本藩である長岡藩の番頭は、番方(警備・軍事)部門のお目見得以上の士分が、藩主に奏上するときに、その取次権を持っていたが、小諸藩では加判の資格を有する用人が、番方・役方問わず諸届けを受理し、専決処分を持っていた。執務中の藩主に面会・面談する場合の取次は、取次(奏者)の職務である。小諸藩では足軽は組編成をとっていたため、組の統率者が、物頭である。物頭・足軽頭は、ほぼ同じ職務内容であったか、呼称上の違いに過ぎなかったものとみられる。小諸藩では大目付・三奉行より、足軽頭・物頭のほうが格上であることは特徴的である。銃卒隊長は物頭である。番頭より席次は格下であるが役高は同じであった。また複数いた物頭の取りまとめ役として物頭支配が設置されたこともあるが、役高は同じであった。物頭の下に足軽小頭(足軽小屋頭)が設置されていたが、卒分の役職であり、士分の役職ではなかった。公用人は幕府・諸藩、及び明治新政府との渉外窓口である。公用人は加判の列ではないため重臣ではない。役職上の席次は、番頭より下位で、物頭より上位、若しくは同格である。小諸藩では9代藩主康哉が若年寄に就任したときと、明治2年の版籍奉還から廃藩までの2年間にだけ、見られる役職である。公用人は、江戸留守居役・同添役と同じ役職といえなくもないが、江戸家老相当の役職ではない。鉄砲隊には、士分で構成される銃士隊(隊長は番頭)と、卒分で構成される銃卒隊(隊長は足軽頭・物頭)があった。銃卒隊員は足軽としては、最も格式が高い部類に属し、小諸藩では、卒分であっても、屋敷を提供していた。多数の配下を持つ足軽小頭(足軽小屋頭)と、配下を持たない一兵卒の足軽鉄砲隊員の家柄・格式を比較した場合、後者の配下を持たない一兵卒の足軽鉄砲隊員ほうが格上であるので、注意を要する。小諸藩の一次史料からは、奉行の存在は認められない。しかし、近代以降に出版された各種著述物によると、小諸藩にも奉行があったと解説しているものがある。著述物によっては「奉行」に就任した者として押兼、高崎、高栗などが、あげられていることもある。著者の情報不足、知識不足、あるいは一次史料によらない孫引きにより拡散したものとみられる。小諸藩には三奉行と、寺社奉行は存在した例があるが、奉行とは異なる。但し稀ではあるが、三奉行を奉行と記述している一次史料も存在はしている。三奉行は給人席で就任可能な中堅士分のポストであり、本藩・長岡藩の奉行のような家老職を補佐したり、藩政全般の実務責任者たる重鎮と誤認すると、奉行に就任したとされる者の実力・職権・格式までも錯覚することになる。小諸藩は小規模な藩であるため、町奉行・寺社奉行・勘定奉行は三奉行として一つの役職として、就任することがほとんどであった。職名は奉行ではなく、三奉行である。小諸町奉行が単独の役職であったときは、小諸代官と呼称されていたこともある。また領内に複数置かれた代官を支配して、民政を統括するのは、一般的には郡奉行(こおりぶぎょう)であるが、小諸藩では小諸代官(小諸町奉行)若しくは、町奉行を兼ねる三奉行に、郡奉行を兼帯させるのが通例であった。郡町奉行という記述も小諸藩一次史料に見られる。郡町奉行とは、郡奉行兼小諸町奉行という意味である。また維新期には民政幹事と呼ばれた。例外として寺社奉行が単独で設置されたことがあるほか、勘定奉行という職名が存在したことはないが、勘定方支配という職名は存在した例がある。その下役で中間管理職に当たるのが勘定方元〆である。 また維新期には会計幹事という名称で実質的に勘定奉行が設置された。大目付と同じく給人格の家柄の出世の到達点の一つであるほか、用人の家柄の者が、用人職に就任する前職として就任することもあった。小諸藩三奉行は、家老職を補佐したり、藩政全般の実務の実質的責任者である奉行とは異なる。藩主にも公私の別があり、私的部分を管理したのが、側用人である。小諸藩主牧野家の執事といえる。藩主及び家族の交際、進物授受の管理なども行った。側衆は、近習とも呼ばれ当直係であり、その任にあるときは当番とも呼ばれた。小諸藩では、側衆と側用人が分化していたときと、未分化のときがあったようである。案件を就寝中や、大奥にいる藩主に緊急に取次くか否かの決定権は、取次(奏者)ではなく、側衆(当直係・当番)にあった。給人クラスの家柄で、有能な者は側用人に就任する機会があったほか、門閥出身の若輩当主や、家老職の跡取りが、父が隠居しないため、相当年齢になっても、部屋住み身分のまま出仕を余儀なくされているとき、側用人に就任することも多かった。また幕末近くなると、馬廻り格の家柄でも、側用人に抜擢される事例が出てきた。諸藩にあっては、家老職などの重臣から藩主に取次を行うのが、側用人ということもあるが、小諸藩では、取次(奏者)の職権である。小諸藩の側用人は、取次と同格であるが、取次とはまったく別の役職である。徳川幕府の御側御用取次の役目に相当するのが、小諸藩の取次であり、小諸藩の側用人は牧野家の家政を総覧した。幕府に側用人が置かれたとき、将軍と老中の取次ぎ役として大きな力を持ったこともあるが、これとも異なるので混同してはならない。江戸武鑑や大武鑑には、用人も側用人と一括記載されているが、格式や職権はまったく異なる。藩主に対する奏上・取次権のうち、諸届けを受付・受理するのは、用人職であり、執務中・仕置き中の藩主に、面談の取次をするのが、取次(奏者)の職務である。取次(奏者)は、藩主と面談申請者とを仲介する「子供のつかい」ではなく、面談の趣旨を聴取して、論点を整理して、簡単な裁きも行うことができた。取次(奏者)は、自分より格上の重臣・番頭などが面談を申請した場合、一存でこれを却下するほどの大きな権限があったか否かは不明であるが、取次(奏者)の実質的権限は、藩主からの信頼度や、時代によって、一律ではなかったようである。天保期の一次史料に、奏上格連綿の家臣が、馬を自家で飼っていたとする記録が残っているので、このクラスの家臣は、格式上だけ馬に乗れるのではなく、実際に馬に乗っていたものとみられる。抜擢により奏者・側用人の職にあった士が、日常的に馬に乗っていたかは、定かではない。小諸藩の大目付は御城番組頭・中間組頭を兼務する。儀礼官・執行官としての役割が強いが、番頭より格下。大目付の補佐役が中目付であるが、数名が任じられた。士分の斬罪・切腹などを行うときは、大目付が自ら、その正使を勤めた。謹慎・押し込み・閉門中の家臣を見廻るのも、大目付の職務である。士分の改易・取り潰しにあたって、屋敷の接収や、立ち退きを迫る実務責任者も大目付である。足軽の処刑や、領民の公開処刑などが行われたときは、大目付も臨席することもあった。この場合の大目付は、あくまで士分の資格を持つ処刑の正使や、吟味役が、職務を全うしたかを確認するためのものであり、処刑の正使を勤めるわけではない。大目付は給人格の家柄である場合、出世の到達点の1つであるほか、家老や用人の家柄の者が、用人職や番頭職に就任する前職として就任することもあった。また大目付支配の下級士分(士分たる目付、つまりヒラ目付)は、平時においては、検品・計量・運搬警備を担当することであった。納品所における検品係りといえる。実際に小諸城内において運搬の業務にあたるのは、中間(ちゅうげん)である。
出典:wikipedia
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