三井 八郎右衞門(みつい はちろうえもん)は三井家総領家である北家の当主が代々名乗った名前。三井 高平(みつい たかひら、承応2年4月27日(1653年5月24日) - 元文2年閏11月27日(1738年1月17日))は三井家初代当主。三井高利の長男。三井 高富(みつい たかとみ、承応3年(1654年) - 宝永6年6月5日(1709年6月12日))は三井家2代当主。三井高利の次男。子孫は伊皿子家と称する。三井 高房(みつい たかふさ、天和4年1月1日(1684年2月16日 - 寛延元年10月17日(1748年11月7日))は三井家3代目当主。高平の長男。三井 高方(みつい たかかた)は、高利の三男・高治を初代とする新町家の2代目で、高治の長男にあたる。歴代には数えられていないが、1734年に3代・高房が隠居した際、後継者の高美が若かったために八郎右衛門の称号を譲り受けた。三井 高美(みつい たかよし)は三井家4代目当主。(1715年(正徳5) - 1782年(天明2))。幼名は万蔵。1733年に勘右衛門を名乗り、翌年父の剃髪とともに、北家を継承、1736年には新八と改名、1738年には京都為替店名前である三郎助を継承、1741年に新町家の高方の死亡を受けて八郎右衛門を継承する。ところが、美術品などの蒐集や西教寺への多額の寄進などによって大元方から多額の借財を抱え、当時健在であった高房の意向で1747年に八郎右衛門の名を実弟である新町家の新弥へ譲らされる。1750年、次男の高清に北家を譲って出家するが、その後も浪費は収まらず、1756年(宝暦6年)8月には一族からの銀1200貫目を手切金として一族からの離脱を表明する。だが、それでも、秘かに大元方からの借財を重ねていたことが発覚、同年閏11月13日後を継いだ高清(当時は新八)よりの申し入れで一族からの義絶・追放が決定され、同月27日には一族・手代83名の同意を得て義絶を決定する申渡印形帳が出されることになった。三井 高弥は、三井家3代目当主・高房の三男で実子に先立たれた高方の養子として新町家の3代目を継ぐ。歴代には数えられていないが、1747年に実兄である4代目高美が八郎右衛門の返上を迫られたため、一時的に八郎右衛門を継承している。三井 高清(みつい たかきよ)は三井家5代目当主。高美の次男。三井 高祐(みつい たかすけ)は三井家6代目当主。高清の長男。三井 高就(みつい たかなり)は三井家7代目当主。高祐の長男。三井 高福(みつい たかよし、文化5年9月26日(1808年11月14日) - 明治18年(1885年)12月20日)は、幕末・明治初期の実業家。三井家の8代目当主。幕末維新の際には、幕府と朝廷の間を巧みに動きまわり、三井財閥の基礎を固めた。1859年(安政6年)外国奉行所御金御用達を務め、明治になって政府の銀行行政の実際面で活躍。第一国立銀行・三井銀行を創立。三井物産も設立した。三井 高朗(みつい たかあき、天保8年(1837年) - 明治27年(1894年)2月8日)は三井家9代当主。三井 高棟(みつい たかみね、安政4年1月14日(1857年2月8日) - 昭和23年(1948年)2月9日)は、三井家10代当主。趣味人として知られ、1906年には、麻布区今井町(現東京都港区六本木)に大邸宅の「今井町邸」を建設。約1万3,500坪の敷地内には能舞台や庭園、テニスコートなどが設けられたほか、後に国宝となる茶室「如庵」が移築された。1922年には宮内庁からの依頼で英国皇太子を迎え、晩餐会や能観賞などで皇太子一行を接待した。1933年に高棟の隠居に伴い今井町邸は嗣子である第11代当主の高公へと受け継がれたが、1945年、戦災で焼失した。三井 高公(みつい たかきみ、明治28年(1895年)8月3日 - 平成4年(1992年)11月13日)は三井家11代当主。敗戦後の財閥解体で三井系各社への支配権を失った後は、父・高棟が創設した幼稚園、若葉会幼稚園を終生にわたって経営した。また、東京都港区西麻布(旧・麻布笄町)にあった総領家三井八郎衛門高公邸(1952年築)は、東京都小金井市にある江戸東京たてもの園に移築され、一般公開されている。夫人の鋹子(としこ・1901年-1976年)は旧福井藩主・越前松平家第18代当主・松平康荘の娘。自動車愛好家としても知られ、第二次世界大戦前はベントレー・イスパノ・スイザ、ブガッティ、ランチアなどヨーロッパの高級車やスポーツカーを常時10台以上所有し、90歳代になってもベントレー・Tタイプを自ら運転していた。三井 永乗(みつい ひさのり)は、三井家12代当主。建築家。
出典:wikipedia
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